Bruckner 交響曲第8番ハ短調(1887年版/
シモーネ・ヤング/ハンブルク・フィル)
Bruckner
交響曲第8番ハ短調(1887年版)
シモーネ・ヤング/ハンブルク・フィルハーモニー
OEHMS BVCC10005 2008年ライヴ録音 NMLにて拝聴
1961年オーストラリア生まれの女流シモーネ・ヤングは現役中のバリバリ。いくら処分してもそれなりの物量を誇る我が棚中CDには(情けないことに)現役演者が徐々に減ってきて、知らず懐古的な嗜好に陥っている可能性もあります。彼女の録音は初耳だけれど、何人かの方々より賞賛の声を伺っておりました。思いつけばNMLにて即確認できる、というのもエエ時代になったものです。”女性にBrucknerファンなし”という非・科学的風評にはけっこう説得力があって至近に見掛けたことはないが、女流指揮者にてこんなお見事な演奏が聴けるなんて!ちょっと驚き、そして痺れました。
しかも、1887年版=初稿ですか?エリアフ・インバル、そしてゲオルグ・ティントナーにて、少々粗野で耳馴染みのない旋律をあちこち愉しんでおりました(両盤とも処分済)。ハンブルク州立歌劇場のオーケストラであるハンブルク・フィルは太古カイルベルト辺りの録音印象が強くて、洗練されず、曇って鳴らないサウンドと想像したが、時代は移ろいました。録音印象もあるだろうが、クリアな響き、緻密なアンサンブル、なにより軽快モダーンなリズム感に驚かされます。しかもライヴとのこと。そうだよな、カイルベルトから50年経っているんだから。二世代回っているんだから。
全体で82:36だから、テンポ設定は標準的。だけれど、やや”速め”(?)に感じられるのは表現が素直ですっきり、エグい節回しとか雄弁なる詠嘆がないからであります。この作品は後期作品中でも巨魁なる偉容を誇る作品だし、歴史的にはそれに相応しい”巨匠的”表現が相応しかったのでしょう。ものものしい悲劇の前兆を感じさせる第1楽章「アレグロ・モデラート」。響きあくまで清涼だけれど、そこはそこ北独逸のオーケストラは軽妙華麗であるはずもない。弦などずいぶんと渋いと思うし、鳴り渡る金管もきらきら派手ではない。洗練は増したが、”曇って鳴らないサウンド”というのは、ある意味伝統なのかも知れません。切迫感が少ないのは時代かも。
第2楽章「スケルツォ」はBruckner作品中最大傑作のひとつと考えるが、ここでは”独逸の野人(鈍重なる田舎者)”ではない。軽妙ノリノリのリズムがあり、管楽器が(金管木管とも)かなり前面に出て、華やか爽快なる明るさがありました。この辺りが”モダーン”な手応え最たるものであって、フル・オーケストラが全力を出し切っても響きが濁らない。壮絶なる切迫感は生まれない。表現上の揺れ動き、タメも最低限だけれど、物足りなさはないと思います。いくつかの歴史的録音では、この辺りの金管が乱れるものだけれど、ハンブルク・フィルは絶好調〜但し、ライヴ収録とは言え、編集はしているのでしょうが。
第3楽章「アダージョ/荘重にゆっくりと、しかし引きずらないように」は、天国的な美しさを誇る30分の長丁場であり、この作品の白眉。弦は濃厚なる表情付けや艶、厚みに不足するが、清涼感たっぷりのアンサンブルに不足はない。弦を基調として、ホルン(音色にやや不満有)、木管が静かに絡んでいくが、全体にさらさらさっぱりとして、長丁場を個性と説得力を以て飽きさせない表現、という点ではちょっと足りないというのは厳しすぎる(贅沢な)意見かな。なんせ、ハイティンクのナマ(2004年)ではここの陶酔が凄かったですから。20分過ぎの金管サビは耳慣れたものはずいぶん姿が異なりますね。21:30辺りの最大山場はシンバルがちょっとクドいじゃないか。
終楽章には神々しさが溢れます。「1887年版はここが一番未整理」、との評価らしいが、ヤングはバランス感覚があり、サウンドは洗練され、神々しい雰囲気を醸し出します。壮絶に金管が鳴り渡り、思いっきり粘着質ルバートで〜みたいなものは無縁でして、響きあくまでクリアで見通しがよろしい。細部までニュアンスが豊かで、もっと響きが濁って混沌に至ってもよろしいんじゃないか、とも思うが、迫力に不足するとは言えない。ラストのアッチェランドも最低限であって、ちゃんと矜持がありました。
録音は極上。なんやら特別仕様のCDらしいが、ワタシはデータで聴きましたので、いろいろと誤解があるやも知れません。しかし、このような新時代の立派な演奏が生まれてくるんだな、深い感慨がありました。
(2009年11月27日)
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