座右に置くべき以前からCD処分はぼちぼちしてはいたけれど、2006年オークションに参加したこと、2007年転勤転居で収納場所不如意になったこともあって、大量処分しております。いろいろ考えがあって処分するんだけれど、いずれ硬派・廉価盤主義のワタシ在庫故安物ばかり・・・基本@300良心価格(人気正規盤は@400/駅売海賊盤だったら@200)だからちゃんと買い手が付き、時に信じられない価格に釣り上がりって恐縮するばかり。頻度は少々落ちたが新規購入も、オークションでの入札も止めておりません。で、先日届いた2枚組CDに感慨がありました。 Smetana 交響詩「わが祖国」「リチャードV世」「ヴァレンシュタインの陣営」「ハーコン・ヤール」「シェイクスピア祭のための祝典行進曲」〜ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィル(1975/74年録音)・・・SUPRAPHON 58C37-7724→25。1985年定価5,800円。20年を経、価格が1/10程になったことではなく、その素晴らしき演奏でにでもなく、ケースの厚みに、です。「2.4cm」〜メール便でも送れない厚さだし、最近流行のスリム・紙パック仕様だったら10枚ぐらい納まるかもしれない〜で、思い出しました。 人間には収集癖があって、それが愛する音楽であればLPやらカセット、CDが次第に場所を占有していくこと、そのものに快感が出るものです。(女性だったら服飾装飾品か?)立派な内容(この場合名演奏の録音)には体裁が必須だったのでしょう。プラ・ケースの材質そのものが分厚いし、装丁デザインだって(LP時代と比較にならぬが)凝ったものでした。「2.4cm」という厚みは”音楽の価値”としてきっと(当時)必要必須なものだったのでしょう。”大きいことは良いこと”〜今は昔。
表題「座右に置くべき」の件。 棚中のCDはカウントしないようにしております。壱万枚には遙かに届かないでしょう。老舗クラシック音楽サイトの主催者としては慎ましいものだと思いますよ。2006年オークション本格参戦以来、処分できたCDもちゃんと数えてはいないが、銀行口座残高より類推すると(そろそろ)壱千枚に及ぶのではないか?煩悩脱却にはまだまだだけれど、物欲は急速に減少していて、しかも、できるだけスリムパックで場所取りを減らしたい〜BRILLIANTのMozart 交響曲全集(ヤープ・テル・リンデン)は、発売直後にレギュラープラケースにて購入したが、それを処分した原資で紙パック仕様を再購入しました(結果的に黒字になったのは余録です)。 仮に棚中「壱万枚」あるとして、CD一枚一時間と換算して壱万時間=徹夜不眠不休で聴いて416日。壱年半。一日2時間聴くとして5,000日=14年弱掛かります。同じものを何度も聴くこともあるだろうし、たった今現在HMVに計23枚分の発注済未到着分がある・・・静態で、修行僧のように順繰り音楽を聴き続けた挙げ句すっかり爺さんに・・・ムリなんですよ、絶対に、全部聴くなんて。それでも、新しい音源に対する興味(煩悩)は尽きない。 ま、楽しみですから。摘み聴きも含め、過半はなんらかのコメントを残してサイト上にアップしております。「嗚呼、これはもうきっと聴かないな、なくても良いかな」と思ったらオークション行きです。嗜好品には「捨てる紙あれば、拾う神有」ということなんです。 でも、全部聴けるか、堪能できるか、そんなことは別にして「座右に置くべき」音楽というのはあるものです。各自、自分なり、各々、それぞれに。例えば(自分だったら)アダム・フィッシャー/オーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団によるHaydn交響曲全集(BRILLIANT 99925/33枚組/1987-2001年)は、ワタシは2002年5月に9,431円で購入していて、おおよそ全部聴いてはいるが、もちろんすべて集中して神髄に触れたわけでもありません。しかし、「フツウのサラリーマンが、全集を気軽に入手できる」ということ自体に感慨はあるし、時と必要に応じて取り出して愉しむ・・・そんな存在。 Haydnは単品CDでも入手しているし、先日、Haydn 協奏交響曲 変ロ長調〜ヴァーツラフ・ノイマン/ゲヴァントハウス管弦楽団/ボッセ(v)/エルベン(vc)/フィッシャー(ob)/セルトマン(fg)(1960年代の録音)を聴いていて、ああ、そういえばアダム・フィッシャーの全集にも入っていたっけ、とCD28を比較対照用に取り出したものです。(1988年/コンマスはライナー・キュッヘル)優雅でモダーン、美しい演奏でした。 (BRILLIANT連続だけれど)Bach のカンタータ全集だったら、ペーテル・ヤン・リューシンク指揮で全12巻60枚が棚最上段に燦然と地位を占めております。全部揃えた後に(金額の多寡はともかく)スリムパック再発売は少々ショックでした。2000年頃一気に録音され、やや粗製濫造気味の演奏水準ながら、聴けば必ずの感動を保証して下さいます。購入既に5年ほど経過するはずだけれど、正直、全部聴けておりません。それでもBach は必ず”座右に”ないとあかんのです。いつでも取り出せる、聴くべき時に瞬時に音にできる〜それが大切なんです。(オルガン作品全集然り、器楽曲/管弦楽作品/協奏曲/室内楽品然り) いつも苦手と公言しているBeethoven の交響曲だって(いくつかは)”座右に置くべき”なんでしょう。(但し、集め過ぎたので6種類ほど処分済/先週更に2種処分)所謂世評高い、歴史の評価を確立した名曲は揃えておいて、(音楽聴取的)”いざ、鎌倉”に整えておくべき。(ちょっと意味違ったか)ピアノ・ソナタ全集も同様。 リファレンス(参照の基準)と呼んでも良いでしょうか。音楽には冒険は必要です。未知の音楽、未知の演奏家、それこそが馴染みの音楽をいっそう深めて下さる。一方で、立ち戻るべき基準というのもはたしかに存在して、それは聴き手それぞれが見つけるものなのでしょう。例えばMahler /Bruckner交響曲全集はワタシにとって必須だけれど、誰の演奏がリファレンスか?というのは少々難問でした。前者はクーベリック/ハイティンク(旧録音)か。後者は決められなくて、「少なくともインバル/マズアではない」ということで処分済み。基準が決まれば、処分はラクになるものです。 でも、”出会い”とは、まさに”出会い頭”ですから。音楽とは嗜好品だから、自分の好みを通したら良いんです。その”好み”もどんどん変遷していく、いろいろ見聞広く聴いてみるということなんです。年末も押し迫って、落ち着かない日々にそんなことを考えました。 (2007年12月21日)
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