Mahler 交響曲第6番イ短調(レーグナー/ベルリン放送交響楽団)


DEUTSCHE SHCALLPLATTEN  TKCC-15103
Mahler

交響曲第3番ニ短調(1983年録音)
交響曲第6番イ短調(1981年録音)

レーグナー/ベルリン放送交響楽団(旧東)

DEUTSCHE SHCALLPLATTEN  TKCC-15103 3枚組1,600円(中古)にて購入

 (第6番は、またいずれかの機会に)〜半年経過。前回第3番のことをちょろりコメントして、拙BBSでも(ありがたいことに)続編の要望がありました。(珍しい)レーグナーはひときわ地味な指揮者だったが、根強い人気があるんですね。東京付近在住の方は、生前ナマでの実力ぶりを目撃されたらしい。そのCDも出ておりました。

 さて「Mahler ならなんでも好き!」なワタシだけれど、純器楽系作品では第6番が白眉でしょうか。幸せなことにナマ演奏で経験しております。実演で見ても楽しいんです、コレ。とくに「渾身のハンマー」ね。全体におどろどろしい情念と怪しい懊悩溢れる名曲!これはシノーポリ/シュトゥットガルト放響(ライヴ。FMで聴いた、が録音残っていない)でこの曲に出会い、シノーポリ/ベルリン・フィル(ライヴ。これもFM放送)で完全に馴染んだ、という先入観なのでしょうか。

 レーグナーが残してくれたMahler ということで、安価に三枚組としていただいたのは、それはそれで感謝。でも、第3番+第6番というのはちょっとムリムリかな?田園的、牧歌的な第3番はいかにもレーグナー/ベルリン放響にはピタリという印象は有。でも第6番は・・・・?ま、虚心になって聴くだけですよ。いつもの如く。

 ゆったりとした遅めのテンポで開始。早い遅いが本質問題ではないが、冷静に、細部を克明に表現しながら、しっかりとした足取りで進んでいく音楽。切迫感はないが、緩んだアンサンブルではない。存分に呼吸が深く、奥行きと大きさを感じさせ、重鈍になりすぎない。推進力も失わない。瑞々しく、そしてクール。

 「おどろどろしい情念と怪しい懊悩溢れる名曲!」〜ワタシはこの曲を聴く度、まっすぐに新ウィーン楽派の音楽を連想します。浪漫派が爛熟し、崩れていく寸前の危うい美しさの連続。1906年初演の作品だけれど「世紀末の退廃」を連想させるに相応しい作品だと思うんです。しかし、ここでの演奏はなんたる「健全なるMahler 」〜ブーレーズの浪漫性を一切否定した「抜け殻のような」〜そんな音楽でもない。

 前のめりのリズム、熱に浮かされたような、あちこちに狂気を連想させるような、そんな演奏はこの曲に似合うかも知れません。レーグナーの表現はもっと真っ当で、まっすぐでした。旋律の美しさを際だたせるための、時に自然なテンポダウンはありうるが、エキセントリックな揺れ動きは出現しない。

 それでも、なんやらジンワリとこの曲の恐ろしさ、深遠なる魅力は沸き上がってくるようで、これは(最盛期であった)ベルリン放響(旧東)のチカラでもあります。中低音が豊かで厚く、高音は派手すぎない。どこにもリキみがない。音楽の自然なる流れが途切れない。

 第2楽章「スケルツォ」は、ここでは第3楽章として演奏されます。これは、作曲者が一時採用した考え方であって、同じイ短調が続くことを嫌っての措置でしょうか。単なる慣れの問題か、美しく、瞑想的な「アンダンテ・モデラート」終了後、ドキドキするような恐ろしいフィナーレがやってこないことに違和感を感じました。「スケルツォ」→「フィナーレ」では「対比」が弱い、やや間延びした印象がある。

 「アンダンテ・モデラート」は白眉でしょう。爽やかな高原の風が、遠景で広がります。カウベルの意味合いについて、柴田南雄先生は「アクセントとしての打楽器という西洋的な発想ではない、特別な意味合い(孤独と世間からの逃避)を持たせた東洋に一脈通じるもの」と分析されています。(ちなみに、1979年のカラヤン/ベルリン・フィル公演ではテープにて代用されたとのこと。これは、単なる費用の節約を意味を越えた、演奏論としての本質的な意味合いがあると・・・)

 牧歌的な味わいを越え、精神の安寧に充々ます。この繊細かつ透明なる味わいこそベルリン放響の技量の証。続く「スケルツォ」は、冒頭の楽章に比べると、テンポが軽快であり、ややサラリと(良い意味で)抜いたような表現でした。「重くどっしりと」との指示であり、4:38辺り(9:23でも!)でテンポを落とす部分はずいぶんと怪しい雰囲気が出るものも。元来ユーモラスであるべきシロフォンも、滑稽味を越えて狂気に近いが、やはりレーグナーの表現は健全方面だと思います。

 抑制が効いてはいるが、不足は感じさせない。これは破壊的なフィナーレへの序章なんです。「最後の審判」であり、「断頭台への行進」でもある。30分間、延々と聴き手を叩きのめし、心中を掻きむしり続けます。泣き叫ぶ激情の表情だって悪くないし、近代的オーケストラの高度な技量を、スポーツのようにみごとに発現させる(ショルティ!)のも悪くないでしょう。

 ワタシは第1楽章の表現と同一性を感じました。「破壊性」の強調のために、音楽の美しさ、バランスを犠牲にしない。「健全なるMahler 」〜テンシュテットと対照的?(ありゃ音質に問題有か)若い頃、ワタシは彼の終楽章に打ちのめされ、指揮者とともに泣き叫んだものです。言い訳と馬齢の人生を重ねた現在では、それが少々押しつけがましを感じるし、残念ながらロンドン・フィルの響きの薄さも気になります。

 Mahler 交響曲第6番イ短調を、なんども楽しみ、感動し続けた結論として、レーグナー盤の抑制と「自然の厚み」が好ましい。それでもハンマーの衝撃は充分ですから。最終版に向けて、テンポは揺れ、走り、熱は高まります。録音はほぼ理想的。(2003年8月15日)


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written by wabisuke hayashi