Beethoven 交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱」 クラウディオ・アバド/ウィーン交響楽団(1981年ウィーン・ライヴ)
Beethoven
交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱」
クラウディオ・アバド/ウィーン交響楽団/ウィーン・ジング・アカデミー/プライス(s)/デルネッシュ(a)/イェルサレム(t)/ホルニック(b)
LIVE CLASSIC LCB 109 1981年1月1日ライヴ 中古二枚組250円
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」(劉廷芝)
2003年、2001年、2回に渡って「第九」の棚中棚卸しをしたものです。わずか6年後、ワタシに「第九連続聴き」の根性はなくなり、演奏の嗜好もすっかり変わってしまいました。リンク中のCDもほとんど処分済みであり、棚中生き残っている全集はヨーゼフ・クリップス、パウル・クレツキ、デイヴィッド・ジンマン、チャールズ・マッケラス。新たにヘルベルト・カラヤンの1970年代全集を入手し、ハノーヴァー・バンドは(かつて所有していたものが盤質劣化のため)再購入いたしました。単発CDはおそらく八割ほど処分済み。
つい数日前、ハンス・シュミット・イッセルシュテット/ウィーン・フィル/ウィーン国立歌劇場合唱団/サザーランド/ホーン/タルヴェラ(1965年)・・・あまりに有名な、定評ある一枚也・・・6年経ったらすっかり感覚が変わってしまって、ちっとも楽しくない。なんか、全然フツウ。そこが良かったはずなのにね。そもそも作品に以前ほどの共感がなくなっちまったのか。罰当たり傲慢野郎だ(=ワシ)。心身とも調子のせいか〜(「音楽日誌」より) との感慨に至り、8枚組をオークションに出してしまいました。
「棚卸し後」に購入したロジャー・ノリントン旧全集なんかも、短い時間にて処分済。先人達が評価を定めて称揚する”人類の至宝”への尊敬の念は失わないつもりだけれど、幅広く音楽を愉しむには人生は短すぎます・・・閑話休題(それはさておき)
ベルリン・フィルのシェフを2002年勇退し、現在は自由な音楽活動をしているクラウディオ・アバドだけれど、世評高いベルリン・フィルとの正規全集は聴く機会を得ません。既に市場から消えた「LIVE CLASSIC」にて、第6番〜第9番の(海賊?オーケストラはロンドン交響楽団中心)音源は棚中に生き残っておりました。当時の評は
グラマラスなカラヤンに比べられて、どうも地味というか、プロレスで言えば故ジャンボ鶴田みたいな位置付けかな?閑話休題(それはさておき)これは非常に立派な演奏です。上品であり、端正であり、オーソドックスだけれど、どの部分をとっても充実していて、細部の仕上げがていねい。出過ぎず、チカラ強さに不足はない。彼絶好調時に見られる「なにもしていないようだけれど、聴き手を存分にアツくさせるマジック」〜ちゃんと覇気もあります。たいへんな拾いもの。音質もよろしい
なるほど、アバド≒ジャンボ鶴田説とはあまりに渋い例示だ。ちなみに「音質もよろしい」とは海賊収録?としては、という前提であって、目の覚めるような!ものではないけれど、ちゃんと苦痛なく聴けますよ、的意味合いであります。「非常に立派な演奏です。上品であり、端正であり、オーソドックスだけれど、どの部分をとっても充実していて、細部の仕上げがていねい。出過ぎず、チカラ強さに不足はない」とは、この音源だけの印象であって、彼が巨匠として活躍した20世紀ラスト辺りとの比較はしたことがないんです。現在は古楽器系表現に接近しているらしいというのも、噂ばかり。
あまりにこども時代からこの作品を聴き過ぎたのか?ワタシは”爆演主義者”ではなく、どちらかと言えば”穏健裏地凝系”自然体を好みます。シュミット・イッセルシュテットを「フツウ」(それもよろしくない意味で)と失望してしまうのは何故か。ハノーヴァー・バンド、ジョン・エリオット・ガーディナー、そしてアルノンクール辺りの”古楽器系”にすっかり耳慣れたためか。歴史的録音だってほとんど”聴けない”状況に至って、例外はせいぜいフルトヴェングラーの中で、相対的に音質状態がよろしいものくらい。
クラウディオ・アバド48歳壮年の記録は、21世紀不景気も極まった現在のワタシの耳にどう響くのか。ウィーン・フィルではなく、ウィーン交響楽団。アンサンブルの精度に優れ、豊満豪華重厚なる艶こそないけれど、柔らかいサウンドを基調とする立派なオーケストラ。「なにもしていないようだけれど、聴き手を存分にアツくさせるマジック」〜これは現在の耳にもそう響きました。聴いていて「フツウ」の演奏がとても愉しい。それは?リズム感じゃないのか。オーヴァーなテンポ変化、ルバートやアッチェランドは存在しない、テンポは中庸オーソドックス、流れがスムースでヴィヴィッド。自然体のノリがたしかに存在する・・・全体に響きが明快。
第1楽章「アレグロ」にはものものしい神秘性はないけれど、まさに端正で上品、若々しい力感にも欠けない。第2楽章「スケルツォ」は異形なる激リズム強調はないけれど、軽快でサウンドが明るいですね。繰り返しもありがたい。第3楽章「アダージョ」こそ絶品白眉であって、磨き上げられたアンサンブルとバランス抜群、弦の清涼なる色気、クセのない木管もさらさらと流れ、響き合います。難所のホルンもノーミスで易々と乗り切って、但し全体に融け合って個性の主張は少ないんです。あくまで軽妙。「なにもしていないようだけれど、聴き手を存分にアツくさせるマジック」〜とはこの楽章への賛辞となります。
終楽章は、精一杯の爆発でスタート。響きちょっと薄いか。ものものしさではない、爽やか軽妙なるサウンドが身上なのでしょう。ほとんど満足な合唱(声楽ソロも)に出会ったことのない「喜びの歌」(このシンプルな旋律にも飽きちゃったかな?)だけれど、この充実ぶりは見事、オーケストラより前面に出ているかも。祝祭的雰囲気は良く出た演奏だ・・・が、小学生から聴き続けてン十年、第1〜3楽章の完成度に比べ、終楽章に取って付けたような違和感は拭えません。いえね、別々に聴いたらそれはそれで悪くないんだけれど。
爽快な緊張感と、ノリと汗に充たされた「明るい」演奏に相当満足。壮絶絶叫の行き着く果て!みたいな演奏ではないが、重すぎないリズムが良いんじゃないでしょうか。 (2009年12月25日)
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