Beethoven ピアノ協奏曲第2/5番(ゼルキン(p)1958年ライヴ)


Beethoven  ピアノ協奏曲第2/5番(ゼルキン(p)1958年ライヴ) Beethoven

ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
(スカリア/イタリア放送ローマ交響楽団 1958年6月7日ローマ・ライヴ)

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73 「皇帝」
(カラッチオーロ/イタリア放送ナポリ”スカルラッティ”管弦楽団 1958年6月3日ナポリ・ライヴ)

ルドルフ・ゼルキン(p)

HISTORY 20.3164-306 ”THE PIANO MASTERS” 40枚組5,990円(税抜)で購入したウチの一枚

 これは100円ショップ・ダイソーでも発売されている音源。「皇帝」の「1958年6月7日ローマ・ライヴ」表記というのは(当然)間違いで、ゼルキンのディスコグラフィによると上記が正しい情報となります。(イタリア・ツァーだったんでしょうねぇ)それと、第2番第2楽章のあとに、第5番第1楽章が収録される(編集ミス)のは「100円ショップ・ダイソー盤」と同じ、とのこと。(音質状況までまったく同じかは、未聴なのでわからない)ま、そんな枝葉末節な情報ともかく、これは素晴らしい演奏です。(音質ともかく。ま、ワタシは耐えられる程度だけれど)

 ワタシはBeethoven を(やや)苦手とする罰当たり者だけれど、交響曲以上にピアノ協奏曲がダメなんです。(ヴァイオリン協奏曲だったらココロ安らかに楽しめちゃう)CDを処分すること再三再四ならず、状態。滅多に聴く機会もない(ナマは別格だけれど)。ゼルキンは小学生の頃から「月光ソナタ」(エエ題名やなぁ、兄所有の17cmLPでした。ようやくBOOK・OFF@250CDにて再会したところ)で馴染んでいたけれど、その先入観か「厳格頑固頑迷なおっさん」というイメージばかりで、あまり聴く機会はありませんでしたね。(SONYはん、廉価盤に熱心じゃないし)晩年のMozart はとてもよかった。解脱したような清らかさが溢れました。

 ”ゼルキンを聴こう!”という意欲に至ったきっかけは、Bach ゴールトベルク変奏曲のアリアの低音主題による14のカノンBWV1087〜ルドルフ・ゼルキン(p)/マールボロ音楽祭管弦楽団(1976年)であります。誰でも知っている件(くだん)の「アリア」が、これほど清明に、ジンワリ染みる経験は希有なもの。で、購入数年放置(全部は聴いていない)した「40枚組」を詳細点検(じつはダブり音源所有の)しているウチに、ああ、これは聴いた記憶がない・・・と。

 何故「皇帝」(的音楽)を苦手とするか。それは、勇壮でチカラ強い旋律と表現への反発によります。強く、前向きの確信と自信に充ちた音楽には生理的な反発があって(1960年代高度成長時代”明日という日は、明るい日と書くのね”的ノーテンキ前向き希望、乃至1980年代バブル時代”就職内定したらハワイご招待”人生パラダイス的発想・・・でもいいや)、一方で名曲喫茶(まだありますか?)片隅で”眉間に皺=人類の懊悩はオレがすべて背負う”的(誤った)気負いも感じさせて、Beethoven はもう勘弁してね、みたいな「脳内固定イメージ幻想」から抜け出せないんです。(当然、Beeやんの責任ではない)

 第2番 変ロ長調協奏曲始まりました。若々しい希望に溢れた明るい作品であり、元気良く溌剌と演奏されることも多いでしょう。ゼルキン当時気力充実した55歳の壮年時代、もちろん技術的な不備はないし、テンポも速め。でもね、それ以外は(先の例示したMozart /Bach 同様)晩年のテイストとそう変わらないのじゃないか。まるでMozart のような、軽快可憐で清明な表現、コロコロと玉を転がすように流れがとてもよろしい。ムリして作り込んだり、リキみがどこにも存在しない。そして、カデンツァはそっとテンポを落として、暗転して、疾走して・・・こんな楽しげなるBeethoven なら、いつでもOKよ!

 第2楽章「アダージョ」って、Beethoven 最良の時を表出した(いつも怒っているわけではないのだよ)優しさ溢れる楽章でして(ま、お次の「皇帝」だってそうだけれど)しっとり瑞々しいピアノは味わい深い。ひとつひとつの音の粒の味付けがしっかりして、そして濃すぎない。時に、消え入りそうにそっとそっと歌って、静かなのに存在が確かなんです。終楽章の躍動にも、余裕と自信があって、押しつけがましくはない。そして微妙に揺れ動いて、絶妙なるタメが、ひたすら美しいピアノ。(聴衆の熱狂的な拍手盛大!)

 「皇帝」との出会いは誰の演奏だったのか。アラウ(p)/ガリエラ/フィルハーモニア管弦楽団の東芝EMIセラフィム盤だったかな?(その演奏の責任ではないと思うが)冒頭、オーケストラのぶちかまし+華やかなピアノ・ソロ〜勇壮なる主題がなんとも苦手で、あきまへん。ここを分析的、非・勇壮的に演奏して下されば好みか・・・というと、そうでもないのが難しいところ。(グールドの表現は、それはそれで価値ある個性だけれど)このナポリでのライヴは(音質がぱっとしないせいもあるのか)威圧を感じさせません。

 リキみなく、流れよく、かといって表層的ではない、淡々とムリなく充実した音楽は進みました。やっぱり弱音がデリケートで、テンポも落として美しさ際だちますね。微妙なテンポの揺れは存在して、それは自然体であり、快感でもあります。勇壮ではないが、かなりノリノリの第1楽章〜雰囲気が明るいのは、カラッチオーロのオーケストラの成果か。

 先ほども触れたように第2楽章「アダージョ」の繊細な暖かさ懐かしさは、個人的にはBeethoven の白眉だと思います。(ま、ワタシのお気に入りは「エリーゼのために」だから)ゼルキンの弱音には、存在感が大きいんです。飾らない、そして弱くない。清涼なる空気が流れて、そのまま最終楽章へ・・・(正直、この盤石なる終楽章冒頭が少々苦手)

 盤石なる終楽章冒頭はさておき、軽快なる推進力はMozart のテイストであって、重厚威圧感方面ではない。ああそういえば、どんな大音量ソロでも叩きませんね(当たり前か)。ライヴならではの感興に溢れた疾走も存在します。時にそっと抜き、ごくごく小音量でそっと囁きつつテンポを揺らせ、上機嫌で気持ちよく音楽は進みました。

 音質問題もあり、ライヴ故の粗さは前提として、二つのイタリアの放送オーケストラはソロに寄り添って、役割をちゃんと果たしておりました。少なくとも熱気と勢い、明るさは充分でしょう。

(2006年2月8日)


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