Bartok ピアノ協奏曲第1/2/3番(ジャン・エフラム・バヴゼ(p)/
ジャナンドレア・ノセダ/BBCフィル)


Chandos CHAN10610 Bartok

ピアノ協奏曲
第1番 Sz83
第2番 Sz95
第3番 Sz119

ジャン・エフラム・バヴゼ(p)/ジャナンドレア・ノセダ/BBCフィル

Chandos CHAN10610  2009年録音

 フィンランド放送交響楽団のMahler (2011年放送録音のネット配信)を聴いて、嗚呼あちこち世界のオーケストラは上手くなったなぁと感心いたしました。メール情報によると亜米利加では年間3萬人の音楽関係大学の卒業生が、全世界に人材供給しているとのこと。録音音質水準も一般に向上していると感じます。クラシック音源は保ちがよろしくて、太古歴史的(時に劣悪音質)が市場に出回って商売になっていたり、若いリスナーの話題になっていたり・・・一方で、CDやらデータ配信やら音楽拝聴(生演奏は別格)は格安(場合によっては無料)に至って、フツウのおっさんにも幅広く種々録音、演奏を確認できるようになりました。自分が子供の頃(若い頃も)はほんま、贅沢品でしたから。そりゃ大切に聴いてましたよ。

 ビンボー症は一生治らない。しかし、ありがたみは薄れるし、華麗なる加齢は集中力を弱め、新しい楽曲と馴染みとなるべき記憶力も減退気味〜そんな日々にバヴゼのBartok拝聴(入手は数年前)。来日もしているのにHMVに未だレビュー登場せず!って、人気ないんか。ジストニアを克服した、というのは話題のひとつ、目の醒めるような技巧の切れ味、BBCフィルは以前から上手いオーケストラやなぁと感じていたけど、ジャナンドレア・ノセダ(1964-伊太利亜)の統率力も賞賛したいところ。もちろん音質極上。

 作品との出会いは、ジェルジ・シャンドール(CD処分済、一部パブリック・ドメインにて再聴)。その後、ちゃんとした音質を求めてイェネ・ヤンドー(1994年)盤を入手したけど、ほんの狭い経験ですよ。定評あるゲーザ・アンダ(1959/60年)にはその音質、みごとな演奏に感心(21世紀にリズム、音質とも現役そのもの)したけど半世紀以上前でっせ、若い人をもっと聴いてあげなくっちゃ〜そんな矢先のバヴゼとの出会いでした。

 作品に余計なる薀蓄は不要だけど、ピアノ協奏曲第1番の初演は1927年、フルトヴェングラー(41歳)の指揮、下準備はホーレンシュタイン(29歳)ねぇ、大時代やなぁ(ちなみに亜米利加初演は翌年フリッツ・ライナー担当)。時代の最先端作品、21世紀現代の耳にも先鋭と感じますもの。硬質なリズムと色彩のみ、といった先入観があって、つまり優雅な旋律みたいなものを感じさせない(ように感じる)。いまとなってはやや大仰強面、リズムのキレもよろしくないと感じるシャンドール、強烈異様な興奮を感じさせるアンダ/フリッチャイ(ほんま素晴らしい切迫感!表現意欲)とも異なって、やや速め、こだわりのないクールな風情+流麗な技巧に(これはこれで)”優雅な旋律”を感じさせる、美しい、洗練された演奏です。ピアノは打楽器として(アンダにはそれを強く感じる)ではなく、旋律を奏でるソロとして際立っております。

 賑々しい爆発と弱音の抑制、バランス感覚溢れて強面に非ず。第2楽章「Andante - Allegro - attacca」に於ける打楽器とピアノの対話も静謐、終楽章「Allegro molto」のノリも軽快であり、重さを感じさせぬモダーンなセンスであります。

 ピアノ協奏曲第2番第1楽章「Allegro」には弦楽器を欠き、金管木管華やかなサウンドは明るい響き。ここでもバヴゼは流麗、ま、バリバリ弾き進む打楽器風ピアノなんだけど、賑々しいサウンドには洗練があります。第2楽章「Adagio」には(逆に)金管を欠いて弦楽主体、静謐繊細な弱音は優秀な録音が必須の前提でしょう。とつとつとしたピアノのモノローグに、ティンパニの遠雷が木霊します。中間部の「Prest」は息もつかせぬ超絶技巧!細かい音型(噂では10本の指では押さえられぬ和音登場!どないしょ?)ここもまったく苦難の跡を見せぬバヴゼの技巧に脱帽。その後、弱音のピアノ・ソロには甘美を感じさせます。

 終楽章「Allegro molto」は打楽器の炸裂(ティンパニの活躍は知る限り史上最高の衝撃)と、打楽器的ピアノ一騎打ち!的華々しさ+金管のファンファーレが更に盛り上げて、やかましい!暴力的だけど、バヴゼ/ノセダのコンビは響きに濁りを生まぬ洗練+軽快さが続きました。ラストのキラキラしたピアノって、素晴らしい対比の妙。

 Bartok最後の作品である第3番は、先の2曲に比べ、ずいぶんおとなしいというか、暴力的大爆発に非ず、わかりやすい、親しみやすいリリカルな旋律と感じます。第1楽章「Allegretto」は、なんとなく「管弦楽のための協奏曲」第2楽章「対の遊び」の風情を連想(ド・シロウトの感想也)。第1番第2番の挑戦的好戦的雰囲気が好きな人は、”霊感が枯れた”と評するのだろうな。逆にこの”わかりやすさ”があかんのか。第2楽章「Adagio religioso」これまた、エラく悟りきった静謐な楽章であって、前衛的風情から遥か隔たった、一時代前の安寧漂います。バヴゼはこの辺りの囁き、上手いもんですよ。終楽章「Allegro vivace」の明るさ、平易な旋律はこれが作曲者晩年の心境なのでしょうか。

 まさかBartokに”精神性”とか今更云々する人はいないと思うけど、第1番初演はフルトヴェングラーでしょ?きっと重厚かつドラマティックな演奏だったことでしょう。アンダ/フリッチャイだって、そうとうの”アツさ”を感じますもの。21世紀の現役はもっとスタイリッシュ、スリムな響きとリズムのキレで聴かせておりました。

(2014年7月13日)


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written by wabisuke hayashi