R.Strauss 交響詩「ツァラトゥストゥラはかく語りき」
(ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団1981年)
R.Strauss
交響詩「ツァラトゥストゥラはかく語りき」作品30
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団(1981年録音)
交響詩「ドン・ファン」/「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
アンドレ・プレヴィン/ウィーン・フィル(1980年録音)
UNESCO CLASSICS DCL 707526(EMI原盤) 300円
以下の1963年録音は(オークション300円にて)処分してしまいました。主に音質問題での不満であり、新しいほうの録音が格安にて入手できたから、ま、エエか、といった安易な発想でもあります。相変わらずR.Straussの佳き聴き手とは言い難い状況だけれど、数だけはいろいろ聴いていて、これは久々の拝聴となった一枚。
オーマンディの前にプレヴィン登場。意外と知られていない第2回目の録音。但し「ティル」はこれしかない。英DECCAで馴染んだ艶々の録音ではなく、まったりと柔らかい、穏健派の表現であり、サウンドであります。悠々と歌ってどこにもリキみのない、優しく自然体の「ドン・ファン」。悠然たるスケールとか強靱なる爆発を期待する人には”スカ”みたいいユルい、演奏に聞こえる可能性有。静謐繊細、ホルンなんかエエ感じに深く(余裕で)鳴っておりますけどね。最近、こんなタイプの演奏ばかり、好んで安閑と聴いております。
「ティル」は作品的に、もうちょっと”キレ”とか”ユーモア”があったほうがよろしいのでしょう。これも優雅誠実、必要にして充分なるメリハリであって、耳目を驚かすような世界(絶叫大音響)は出現しません。ウィーン・フィルがいつになく素朴な印象なのは、残響少なめの音響のせいもあるでしょう。おそらくは優秀録音で、人工的不自然なる音場は存在しません。こういった品のある演奏、録音のほうが(おそらく)聴き疲れしない。長く聴き続けて、作品の味わいを正確に伝えるものなのでしょう。
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さて、御大オーマンディ登場。なんとトラック分けなし、33:16始まったら最後まできちんと聴けよ!といった配慮ある収録に感謝しましょう。こうして続けて聴くと、ウィーン・フィルとフィラデルフィアではずいぶんとサウンドが違うものだな、と(あたりまえに)感心いたします。(ちょいと違和感も有)もっと艶々で華やか、メリハリも色気もたっぷりで、じつに上手い、よく鳴るオーケストラ!いったいどちらが爺さんの演奏なんじゃい?81歳の若々しい溌剌ヴィヴィッドな表現にココロ奪われます(プレヴィン51歳)。基本、あまり特異な色付けとか変化を付ける人(=爆演)じゃないが、適度な揺れやタメ、軽妙なるノリは熟達の表現なのでしょう。もちろん大爆発の鳴りっぷりに文句はない。
おそらくは、オーマンディ爺さんのほうがド・シロウト耳R.Straussの個性に似合っていて、プレヴィンは枯れ線、ややマニアの嗜好方面か。でもね、オーマンディもこれはこれで”自然体”でして、実力あるオーケストラを率いて余裕のサウンドたっぷり瑞々しく全開であります。けっしてムリムリ強引に非ず。CBS時代の刺激的な音質ではない、やや素っ気ない(もっと残響、奥行き欲しいところ)EMI録音はフィラデルフィ管弦楽団の華麗なるサウンドを正しい姿で伝えて、満足感たっくさんいただきました。 (2010年3月5日)
R.Strauss
交響詩「ツァラトゥストゥラはかく語りき」作品30
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団(1963年録音)
SONYCLASSICAL(フランス) MYK62801
(付「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 セル/クリーヴランド管弦楽団)
3枚1,000円(売れ残り処分)で買ったうちの1枚。フランス製で紙のケース入。
R.Strauss
交響詩 「ドン・ファン」
交響詩 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団(1957年)
オーマンディのほうはこのサイトの初期から掲載していて、久々の再聴にも充分感銘を受けたことを付しておきましょう。やや、オン・マイクで高音過剰、肌理粗い音質をさておいても、一流の実力あるオーケストラのサウンドは存分に楽しめます・・・問題は(SONYはんお得意な)突拍子もないコンピレーションでして、ま、LP時代なら各々別々の収録で2枚組だったものを、サービスして下さったのか。しかし、ジミな音質、なによりまったく方向性の異なる演奏をムリヤリいっしょにしてしまうから、妙に据わりが悪い。
この2曲だけ聴けば、超・優秀録音!とは言わぬが、ややぼんやりどんよりしているとはいえ、それなりフツウの音質でございます。演奏はというと、この作品に幾数十年のお付き合いを経て、未だに「こんな方向で!」という自らの聴き方軸(好み)を確立できない(から感想をちゃんと持てない)ワタシ。嫌いな作品じゃないんですけどね。比較的最近に聴いた、コシュラー/スロヴァキア・フィル(1989年)では「上手いオーケストラじゃないと楽しめないのか?」的不遜なる感想を抱きましたけど。
オーマンディのあとだから、録音がどうの、という理由ではなく、凝縮した集中力とジミな演奏スタイル方向でしょう。両作品とも妙なる木管の歌とか、壮絶なるホルンの絶叫が効果的なものだけれど、クリーヴランド管弦楽団というか、ジョージ・セルの個性ではその辺りは抑制されちゃいます。上手いオーケストラだけれど、正確さを優先して特別な色合いを表出させない。颯爽と流線型に旋律を走らせるかというと、そうでもない。
弦や、木管の細かい音の刻みを聴いていると、Mendelssohnの「イタリア」を連想しますね。驚くべき正確なリズムと集中力、メリハリ・・・じつは「イタリア交響曲」(1962年録音)は、その辺りの個性が厳しすぎて、”勘弁してくださいよ”的印象を持ったものだけれど、R.Straussではその表現方向が快く感じました。作曲者弟子筋直伝として、ザッハリッヒな演奏を目指しているのか。しかしその結果、正しい作品の在り方というか、無味乾燥ではない”味わい”が、聴き慣れるに従ってじわじわと・・・
正確無比なるアンサンブルといっても、それなりにテンポは揺れて、細部の表情は豊かではないか・・・何度も聴くと、神経質なる縦線の合方はすべて音楽に奉仕するためにある、そんなことを気付きました。ちょっと、他の演奏を聴くには時間を置かないと。 (2006年8月12日)
苦手R.Strauss克服の日々。出会って30年経っても苦手意識が抜けない。この録音はLP時代も持っていいたような記憶がある(「英雄の生涯」との二枚組?)。数年前の自分の感想↓では「どのパートも『われもわれも』と前面にせり出して聞こえる」と書いているが、なるほど、いかにもそんな感じがします。これは録音のせいもあるんでしょう。奥行きとか、距離感が不足します。
それにしても、このオーケストラの圧倒的なせり出すような勢いと、派手派手しさには驚かされます。高音を際だたせた録音だけでは説明の付かない、この刺激的な明るさ。なんというオーケストラの上手さ、ヴァイオリン・ソロ(ブルシロウ?)の語り口は朗々として説得力が凄い〜というか、あらゆるパート(例えば木管!)が余裕のパーフォーマンス。これが「われもわれも」との印象を生み出します。
つい先ほど、ライトナー/南西ドイツ放響のひときわ抑制の効いた演奏を聴いたばかりなので、この落差は衝撃的です。オーマンディは奇を衒った表現を目指す人ではないが、明快なる表情付けが、これほどわかりやすい演奏も珍しい。「腹芸」を重んじる日本人に人気が出なかったのも一理ありますか。いや、もう、ギンギンに歌い叫び、大騒ぎな演奏なんです。これぞオーマンディ。
陰影には乏しいが、メリハリはきちんと付ける人なので、思いっきり〜例えば(低)弦、金管、ま、なんでも〜旋律をゴリゴリ、情け容赦なく際だたせるからうるさいこと!ニーチェの原書は読んだことはないが〜有名な「神は死んだ」という言葉で表されたニヒリズムの確認から始めて,さらにニーチェは,神による価値づけ・目的づけを剥ぎとられたあるがままの人間存在は,その意味を何によって見出すべきかを問う〜ええっ!そんな難しいことを表現しているの?いや、ある意味この演奏方向が正攻法なのか?
オーマンディだともっと「人生はお祭りさ!」みたいな哲学ですよ。最近、辛気くさい事件ばかり発生するから、この演奏は聴いていて、けっこう気持ちヨロシ。ノリノリのド迫力でいきまっしょい。体調の良いときには、そうとうに爽快です。この底抜けの明るさ、希望に満ちたサウンドは「明日はすべて素晴らしい」というアメリカン・ドリーム時代の産物だったのでしょうか。正直、別の曲を聴くかのような印象。(2003年8月15日)
日本では最初から最後まで人気のでなかったオーマンディ。LP最盛期の新興レーベル(当時の)SONYでは廉価盤音源として(@1250)使われたので、ワタシにとってはひときわ馴染み深く、愛着ある演奏家のひとり。
かなり昔の録音なので、音の粒立ちに粗さを感じさせるものの、明快な音質です。高音が金属的なのはこのレーベル特有の個性。冒頭のオルガンの低音はなかなかの迫力。平板というのではないが、どのパートも「われもわれも」と前面にせり出して聞こえるのはこのオーケストラの特性でしょうか。もちろん、どのパートも抜群に上手く、明るい。
陰影とか、思いがけない内声部の主張、というようなことはなくて、どんなパートも平等に、均一に響きわたります。解釈そのものは平穏でオーソドックス、特別なルバートとかアッチェランドとはほとんど無縁な世界。曲そのものが持つ味わいはそれなりに表現されていて、このそうとう派手派手しい音楽にはそう違和感もないが、平和で楽天的な演奏なんです。
オーマンディがCBSに膨大な録音を続けていた1960年代前半。日本はまだまだ貧しくて、「人生の苦悩〜眉間にシワ」的な演奏が人気があったはず。「豊かなアメリカ」の演奏は、ドイツ・オーストリア系の演奏家が「本場もん」とありがたがられていた時代には、敬遠されたことでしょう。たしかに、キンキラキンで圧倒的豊満大金持的演奏に間違いなし。
「ツァラ」はあまり好きな曲じゃなくて、あまり深刻に考えず、頭の中を空にして聴ける演奏がいいんですよ。
録音の加減か、もともとの「オーマンディ・トーン」の力か、やたらと騒がしい、うるさいサウンドではあります。
「ティル」「ドン・ファン」はセルの演奏。オーマンディの録音もあるはずなのに、何故セルなのか。SONYの廉価盤はいつも演奏家の選び方が乱暴なんですよ。オーマンディ→セルと来れば、さすがに相当な違和感有。録音もやや落ちて鈍い感じだし、演奏そのものもかなりスリム。
アンサンブルは縦線の合い方が尋常じゃなくて、反応が早い。リズムが厳しくて、推進力が凄い。「ティル」はかっこうよくて、厳しいからこそ自ずと生まれるユーモア、みたいなものが感じられます。オーケストラは力量は相当に高いが、オーマンディのあとに聴くと地味に見える不思議。
「ドン・ファン」も、いくらでも煽ることが可能な曲ながら、むしろ一歩引いて余裕の演奏ぶり。余分な贅肉をそぎ落としたような(うらやましいワタシ)、どこをとっても充実しきった響き。各パートの個性より、あきらかに指揮者の個性優先で組み立てられた高い芸術性。テンションの高さ。一人ひとりはもの凄い技量だけれど、全体としてはそれが目立たない。名人芸。
【♪ KechiKechi Classics ♪】 ●愉しく、とことん味わって音楽を●
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