許 光俊 「生きていくためのクラシック」光文社新書 2003年発行 720円 前著「世界最高のクラシック」も気に食わなかった。「最初に」から言い種が気に食わない。「世界最高」のものしかしか聴かない。「私の生は、もう十分に退屈で、つまらないからである。平凡で卑俗だからである。」〜って、そこまで言わなくていいじゃない。「私にとって、世界最高のクラシックとは、生が生きるに値すると納得させてくれるものなのだ」・・・う〜む、蘊蓄多過ぎない? なんか、なんでも楽しんじゃうワタシがバ〜カみたいじゃん。もっと気軽に「ああ、きょうも納豆が旨いな」とか、雨かと思ったら良い天気になったじゃない、みたいな音楽の楽しみ方じゃマズいですかね。だいたい、大上段に振りかざした「最初に」のワリに、本文が意外とありきたりじゃない。閑話休題。 じつは本文のみを読めば、そう違和感がなくて、ワタシの好みとそう違いはない。リヒターの「マタイ」への評価は、古楽器派をうならせる説得力を持つことはほぼ異論はないでしょう。問題はBACH「管弦楽組曲」(1961年)でして、ワタシ、この立派さ、巨大さ、濃厚さに仰け反ったのは、つい先日図書館で借りてLP以来10年ぶりに再聴したときでしたね。彼は「精神のバロック」と名付けているが、たしかに一種異様なる音楽に対する高潔な畏敬の念が溢れてたじろぐばかり。 ま、お次の「官能のバロック〜パイヤール」含めて、アーノンクール、ブリュッヘン以来似たような演奏ばかりの古楽器派に対するアンチ・テーゼなんでしょうね。流行やら知名度に左右されず、もっと神髄を聴け、ということか。古楽器系ではクリスティを「退廃のバロック」(この命名はいかがなものでしょうか)として推薦しているのにも、ま、自分の好み的には共通してます。 ジュリーニに”歌”を感じるところにも異論はない。コルボの合唱への高い評価も〜ワタシは彼の合唱に”日常”を想起する〜同じ。現代最高の機能集団を率いたショルティの評価もその通り。数年前までは、そのノーテンキなMAHLERに耐えられなかったが、いまとなってはノーミソ空にして「おお、これはこれで美しいではないの」という快感があります。ま、難しいことを書いているが、ワタシの感覚とそう違わない。(スヴェトラーノフは、ちょっと巷間騒がれ過ぎなのでちょっと避けてます、ワタシ。はい。ごめんなさい) レーグナーやマルティノンは以前から気に入っておりました。こうして、著名なる若手評論家が取り上げて下さってブームが起きて下さるかな?「クーベリックはライヴでこそ燃えるような真価が!」というのは、多くの方が語っていらっしゃるからほんまなんでしょう。ワタシは彼のスタジオ録音も、充分な価値があると思うので、ムリして高いCDを集めようとは思いませんが。 ラスト、おまけが数人分の指揮者で取り上げられております。ザンデルリンク/ベルリン響2001年ラスト・ライヴが出てくることは、まことに喜ばしい。文章表現とか云々別にして、取り上げる視点にそう違和感はないんです。でも、あの「最初に」はなんだったの?と不思議に思うばかり。この(続)が出たくらいだから前著も売れたのかな? こんな著作って、どういう意味があるんでしょうか。ま、ワタシ如きが云々すべきことでもないが。(2003年11月16日)
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