ドナルド・キーン 「音楽の出会いとよろこび」

批評家の陳腐な評論や定説を排す
中公文庫 1992年発行  580円

 前著「わたしの好きなレコード」は、音楽を愛する者として、避けて通れない誠実な著作だったと思います。少々以前の発行で既に店頭にはないかも知れませんが、この著作はいっそう深く、重い。自分の音楽に対する根本思想を問われているようで、なかなか読み進めません。なんども、なんども、行きつ戻りつ、噛みしめながら味わうべき著作です。

 彼の主たる音楽の興味はオペラであって、それは子供の頃から馴染んだカルーソーのレコードであり、戦前戦中戦後のメトロポリタンの舞台に接していることに決定的な影響を受けていることは明白です。彼の描写〜これはテクニックばかりではなくて、音楽に対する愛と情熱の威力〜に掛かると、嗚呼、聴いてみたいな、往年の名歌手の全盛期はどんなに素晴らしいのだろう、と思わずにはいられません。

 誰でも名前くらいは知っているマリア・カラス。1952年ショッキングなコヴェント・ガーデンでの出会い(「ノルマ」〜聴いたことのない最高のオペラ演奏であった、と)、全盛期、そして声が出なくなってしまった哀れな時期〜それでも聴衆を魅了した、という驚くべき事実。1956年のメトロポリタンの「ノルマ」では、美しい容姿、類い希なる知性的演技、そして落ちていく声量、不安定な高音・・・

後年ますます目立つようになっていく高音域における不安定さそのものによって、舞台の劇的緊張が高まることとなった。高い音がみごとに乗り切られるとき、聴衆のひとりひとりが勝利の瞬間を味わい、カラスと栄光を分け合うことになった。カラスが音程をはずしたときには、聴く者の心の中を痛みが駆け抜けた。だが、その痛みも、次の試練を待ち受ける希望と期待に転じ転じていくことになる。・・・二流、三流どころの歌い手を聴く場合とはまったく違うのだ。

 この現象は世阿弥の「至花道」がもっとも巧みに説明している〜曰く、達人は芸を完成させたあと、完璧さ故に聴衆に退屈を感じさせぬため、意識的に下手なワザを取り込むことがあるという・・・

 「アメリカ人演奏家のために」〜おそらく、この一文がワタシにとっても白眉でした。トロント響演奏に対して「アメリカのオーケストラと比較すると、ちょっと人間みがあって、暖かい感じがします」とのFM放送での評論家談。おおよそ、アメリカの団体を、欧州より軽視する風潮(しかし、カナダの団体とは!)は存在して、それは日本の演奏家を軽視する風潮と同一の根元でもあります。

そうした態度は、音楽の演奏の特質のより深い考察を拒否するある種のお手軽な俗物根性の表れなのだ。

 ショティ/シカゴ響の素晴らしいBEETHOVEN演奏の解説には「シカゴ交響楽団が、ヨーロッパ的な、自分の望むような音を出す楽器になるのを待っていたに違いない」〜これは演奏しているアメリカ人が、BEETHOVENの様式を身につけていない、という前提があり、しかも、あらゆる歴史的事実と実状とは大きく離れていることを指摘せざるを得ません。

 嗚呼、先入観!シカゴ響の歴代の指揮者はすべて欧州人ですよ。音楽をレッテルやら、思い込みではなく、虚心になって聴かないと。キーンさんは、日本人・小澤征爾がアメリカのオケ・ボストン響を指揮した「幻想」を絶賛しております。(たしか彼は前著でもこの組み合わせのフランス音楽を絶賛してたはず)

 戦時中、ホノルルにて日本人捕虜に聴かせた「英雄交響曲」の感動的な逸話〜音楽のチカラはたしかにある、という確信。かずかずのオペラ演奏に寄せる愛情〜宗教音楽に対する謙虚な姿勢(ヨッフムの演奏に対する辛辣な批判有)ワタシは、冒頭に書いたように、少しずつ、ゆっくり反芻しながら読み進めております。数年前に読み終わった著作であり、部分部分にはたしかに記憶はあるが、発見が続きます。

 まだ、しばらく読み進めましょう。(2004年1月1日)


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written by wabisuke hayashi