Mahler 交響曲第4番ト長調
(ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団)


Mahler 交響曲第4番ト長調(ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団) Mahler

交響曲第4番ト長調

ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団/ラスキン(s)(1965年)

歌曲集「さすらう若人の歌」

シュターデ(ms)/アンドルー・デイヴィス/ロンドン・フィルハーモニー(1978年)

SONY SBK46535 680円にて購入

 交響曲第4番ト長調は、Mahler 作品中第1番に次で馴染み深い、子供時代から親しかった音楽であります。(ハイティンクの旧盤だったか)ま、LP一枚に収まって廉価盤だったし、音楽の”柄”もこぢんまり風で聴きやすかった。やがて幾星霜、Mahler はブームを経、大編成の他の作品も含め全集をいくつも入手、楽しめる贅沢で幸せな現在の身分となりましたね。

 ところが、生来の傲慢な性格故”ありがたみ”を忘れ、第4番はどうもぴん!と来ない今日この頃。(それなりに・・・愉しんでおります)ま、とにかく自然体で、素直に演奏してくださったら文句言いません〜例えばクーベリック辺りが理想的じゃないでしょうか・・・って、昨年2004年だったか、入手したセルの演奏を聴いて、すっかり宗旨替えしました。痺れました。何度も、なんども聴きました。録音、出色に良好。

 「あるものを美しいと表現したならば、それを誤解したことになる」(ニーチェから吉田秀和氏が引用し、ベルリンこんの氏がそれを孫引きし、更にワタシがそれを剽窃した・・・良い子はマネしないように)そうだから、ワタシは、おおいなる誤解の渦に巻き込まれたのでしょう。”こぢんまりした”音楽には聴こえない。テンポはややゆったり、大きく呼吸してテンポは入念に、必然性を以て揺れます。”間”の意味合いが深い。音楽の”柄”は大きい。それは異形なる巨魁ではなく、必要にして充分なる説得力があって、つまりは作品につきづきしい表現だ、ということです。

 これはセル/クリーヴランド管弦楽団の演奏を聴いて、かなりの頻度で感じることだけれど、弦も管も”美しくはない”という事実であります。シルクの衣擦れのように鈍く輝く弦、官能の極みのような木管、茫洋と森の奥深く木霊する金管・・・ではない。しかも、聴き手の肺腑をえぐるような、切なくも神経質なる感情移入でもない。ワタシ如きの市井の音楽の聴き手は、いつもワン・パターン表現で申し訳ないが、これは襟を糺すべき”正しい音楽”なのだと。

 正確に、作曲者の意図を誤りなく伝える誠実。揺るぎない意志。結果として、なんという繊細でよく歌う透明な弦、快く空間を埋め尽くすホルン、甘さのない集中力アンサンブル・・・これは、たしかに”美しい”。砂糖の甘さではなく、素材の持ち味を引き出して、結果として説得力ある至福の音楽に満たされる悦びよ。

 要所要所での圧倒的爆発(例えば第3楽章後半戦でのラッシュ!)に、オケの実力を感じ取ることも可能であります。しかし、全体として静謐が支配して、ゆったり夢のような安寧が漂って・・・最終楽章「天上の生」に至っては、ほとんど「大地の歌」〜「告別」の深遠さを連想させて、ジュディス・ラスキンの歌は入念であります。

 フレデリカ・フォン・シュターデのMahler とは、少々忘れ去られた音源かも知れません。上記、セルとの組み合わせは違和感有(SONYはん、いつもだ)だけれど、独立して別に聴けばこれは素晴らしい演奏に間違いはない。

 華やかなんです。ウキウキとした、良い香りが部屋に漂うような、明るく幸せな美声であります。(少々ヤマしい気持ちにもなっちゃう)ワタシはフィッシャー・ディースカウを賞賛するに吝(やぶさ)かではないが、こんな音楽の楽しみは許されても良いじゃないか、と。アンドルー・デイヴィスのロンドン・フィルはまことに立派であって、個人的にはテンシュテットの録音より好調か、と感じたものです。

(2005年11月11日)

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written by wabisuke hayashi