Mahler 交響曲「大地の歌」(ピエール・ブーレーズ/
ウィーン・フィルハーモニー/
ミヒャエル・シャーデ(t)/ヴィオレータ・ウルマーナ(ms))


DG UCCG70076 Mahler

交響曲「大地の歌」

ピエール・ブーレーズ/ウィーン・フィルハーモニー/ミヒャエル・シャーデ(t)/ヴィオレータ・ウルマーナ(ms)

DG UCCG70076 1999年録音  

既にエア・チェックMD処分済み、ライヴがどんな演奏だったが確認しようもないが、この間のパターンと変わりはない。音量は大きくないのに、細部迄見通しがよろしい、ほとんど浪漫の残滓を一掃して素っ気ないほど無駄を削ぎ落とし、ムリのない表現+緻密クールなアンサンブル。結論的にブーレーズが指揮するとオーケストラの個性が素直に、というか鮮明に表出するということですよ。歌い手は若々しく、かつての巨匠時代の個性とは違った鮮度がありました。(但し、ヴィオレータ・ウルマーナの独逸語ってなんかヘン?もちろん門外漢ド・シロウトの直感だけれど)新時代の、美しいMahler といった手応え充分。響きは濁らず、洗練されておりました。(「音楽日誌」2011年5月より)
 記録を確認すると2000年にFM放送され、それはセッション録音と同時期のものだったのでしょう。最近、いつも拝見しているブログにMDの話題が久々、あれは寿命短い媒体やったなぁ、パソコンのデータ保存とかもっと活かされる道があったんじゃないか・・・(遠い目)若く貧しかった頃(LPCDが高価であった頃)でっかいトンボ型アンテナ+タイマーも駆使してFMエアチェック(カセット)を日々熱心に続けていたもの。DAT、MDと贅沢になって・・・やがて全部処分いたしました。現在ネットより、ライヴ音源をダウンロードしているのと変わりません。

 ピエール・ブーレーズ(1925ー2016)は大好きだったけれど、2000年頃、次々登場するMahler録音には馴染めなかった記憶有。第5番1968年BBC交響楽団ライヴは気に入っていた記憶有バーンスタイン(旧録音)テンシュテット、ショルティ辺りが基準やったからね、もともとの出会いはブルーノ・ワルターでしたし。「大地の歌」だったら同じウィーン・フィルでもブルーノ・ワルター(1952年)、そんな世代ですよ。ブーレーズのはあまりに余分な脂肪を取り除いて、素っ気なく聴こえたもの。

 やがて幾星霜。21世紀にMahler演奏は日常となって、時代はダイエットヘルシーへ。この辺りは楽器編成も大きくて、近代管弦楽も華やかに演奏技量やら録音水準向上が必須となりました。やがてBoulezのMahler全集を全部聴ける身分に至って、すっかりお気に入りとなりました。要らぬ余情を加えぬピュアサウンドには、シカゴ交響楽団やらクリーヴランド管弦楽団が相応しいと思います。ま、ウィーン・フィルも立派、但し、シュターツカペレ・ベルリンはオーケストラがヘタに聴こえるからあまり相性がよろしくないのか。

 Michael Schade(1965-)は瑞西出身(名前的に独逸語圏か)この録音時点30歳代の若手、Violeta Urmana(1961-)も現役世代、リトアニアの出身、独逸語がクリアではないとのコメントを(日本語生涯一筋な)自分がすれば笑止千万、カスリーン・フェリア(Kathleen Ferrier, 1912ー1953英国)だって発音は怪しいものでしたよ。オリエンタルな詩情あふれる「大地の哀愁に寄せる酒の歌」「秋に寂しき者」「青春について」「美について」「春に酔える者」「告別」美しい60分はあくまでブーレーズのオーケストラが主役、クールに洗練され微に入り細を穿つていねい仕上げは、もはや「色気も素っ気もない」とは感じられぬ21世紀であります。

 多感な青春時代の刷り込みがブルーノ・ワルターだったから、テナーは無頼、ほんまに酔っ払っているように歌うべき(ユリウス・パツァーク1898ー1974)、アルトは深い情念を感じさせるようなアクでなければ!(カスリーン・フェリア)それに比べてミヒャエル・シャーデの朗々と健全なこと!ヴィオレータ・ウルマーナの淡々と正確な歌唱、ブーレーズが彫琢した美しい音楽の邪魔をせぬように、その一部として機能しておりました。

 一般に声楽関係+オペラはおそらくは言葉の壁もあって拝聴機会の少ないもの。数少ない例外はMahlerとBachであります。嗚呼、ブーレーズも逝っちまったなぁ、そんな感慨に浸りつつ、完璧バランスをたっぷり堪能いたしました。

(2017年11月12日)

Mahler

交響曲「大地の歌」

ピエール・ブーレーズ/ウィーン・フィルハーモニー/ミヒャエル・シャーデ(t)/ヴィオレータ・ウルマーナ(ms)
1999年10月17日楽友協会大ホール・ライヴ(FM放送より)

 例の新録音の前後のライヴだと想像されます。これ、いつもは辛口のヴェテラン評論家も大絶賛なんですね。曰く「ウィーン・フィルの極限の美しさ」「歌い手の新鮮さ」云々。ワタシは昔からブーレーズの大ファンだし、「最近はダメになった」という論調にも与しません。でも、この演奏、そんなに凄いんでしょうか。

 ま、誰でも同じかも知れないけど、ワルター/ウィーン・フィル/フェリア/パツァークの演奏で出会っているんですよね。ちなみに、次に聴いたのが同じくNYPOとの新しい録音、次でようやくバーンスタイン/ウィーン・フィル。バーンスタインの信じられないほど明るく、爆発する演奏には驚いたけれど、ワタシには一種独特の先入観がこの曲にはあります。

 パツァークのなんとも言えない虚無的な声質、もの凄くおどろおどろしさを感じさせたフェリアの重苦しさ。ワルターの一見明快でやさしい、じつは心の底に澱んだものを感じさせるオーケストラ。ワタシにとってMahler とは、第1番の「青春の甘美な胸の痛み」(やはりワルターの演奏でした。13歳の時)に次いで、そんな「大地の歌」だったのです。

 やがて幾星霜、ワタシはたくさんのMahler を聴き、どの曲も身近なものとなりました。いつもいつも、心の中に負荷を掛けて音楽は聴けない。甘い旋律を素直に楽しむことも覚えました。でも、「大地の歌」は(いやほかの曲でも、第9番とか)もっと人生に対する虚無的な、神髄をえぐられるような演奏であって欲しいと思うのです。

 FMからのライヴは、おそらく正規録音に比べれば条件が整っていないのでしょう。音が乾いていて、奥行きが足りない。それでも、溌剌として若々しいシャーデの魅力的な声、完成度の高いウルマーナの歌、素晴らしいアンサンブルの水準、各パートの美しさ(「告別」における木管は絶品)、はちゃんと聴こえます。でも、なにかが足りない。どこかが違う。

 もっと叙情的なもの?おそらく違うでしょう。ロスバウト/南西ドイツ放響/ホフマン(a)メルヒャート(t)の1957年の録音(VOXBOX CDX2 5518)があって、怜悧で残酷なくらい叙情的なものとは縁のない冷たい演奏だけれど、これには「畏敬の念」を感じます。

 やはり「時代の棘」が丸まってしまったのでしょうか。「ブーレーズは最近ダメになった」と論評する人々と、似たような結論なのでしょうか。この演奏が凡百ではない、美しい演奏であることは当然ですが、「良くできたフツウの演奏」に近い。ワタシにとっての「大地の歌」ではない。「ブーレズだったら」という期待があります。

 正規録音の、ちゃんとした音質で聴けば、また印象は変わるかも知れません。ワタシの安物オーディオ、しかもエア・チェックMDですから、結論は時期尚早でしょう。でも、こんな事象に出会うと、ますます「メジャーの新録音」からは足が遠のきそうです。


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written by wabisuke hayashi