Beethoven 交響曲第5番ハ短調「運命」
(カルロス・クライバー/ウィーン・フィルハーモニー)
Beethoven
交響曲第5番ハ短調 「運命」
カルロス・クライバー/ウィーン・フィルハーモニー
ECHO INDUSTRT CC-1006(DG海賊盤)1975年録音 1,000円で購入
いまとなっては”笑い話”のようなジョーダンでしかない「駅売海賊盤」の価格。でも1990年頃、この価格はほんまにありがたく、貴重なものだったんです。LP2枚で収録された作品がCD時代になって一枚に・・・って、この作品はLP時代からお気に入りでした。リスマ的人気”カルロス”ならではの収録!(海賊盤じゃ話しにならんが)でもね、聴き手にとって、こんな激しい音楽を集中した後では疲れ果ててしまって、これでもう精一杯でしょうが。(続けて第7番を!なんてムリ)
2004年に一度このサイトでコメントしております。曰く
表現として異形なる「爆演系」ではない。ほとんどストレートまっしぐら。極端なるテンポ設定や揺れ、ルバートやらアッチェランドは多用されません。アンサンブルは細部まで神経質に整っているわけでもありません。ウィンナ・ホルンのド迫力、抜いたところの繊細さはともかく、ウィーン・フィルは優美な美しさを誇っているわけではない。つまり外面を磨くことに汲々としておりません。自由で自発的な推進力、ひたすら高いテンションと勢いが魅力なんでしょうか。聴いていてゾクゾクするような生理的な快感がありますよね。第1楽章、終楽章の繰り返しもありそうで、なかなかないもの。録音はフツウです。(ちゃんとした盤じゃないからあてにならぬが)
他のサイトのBBSで「クライバーは晩年に向けて成熟していくタイプではなかった」とのコメントを拝見しました。「スポーツみたいなものですか」とも。なるほど。ワタシは、ここ最近地味渋穏健派にどんどんすり寄っているから、少々違和感はあります。でも、青春の爆発、二度とない若き日の燃焼!みたいなものを感じ取りました。でも、いつもいつも日常聴くような、そんなヤワな演奏じゃないか。
あとは”好みの方向性”の問題であります。クールで緻密繊細な世界があってもよろしいだろうし、重量級戦車級怒濤の演奏でもよろしいでしょう。円熟ではなく、若々しい体力を生かした荒々しくもスポーティな勢いは(この時点の)貴重なドキュメントでした。「ディジタル時代になったから再録音を」なんて、あり得なかったんでしょう、きっと。
ワタシは相変わらずBeethoven を聴く機会少なく、カルロス・クライバーも(世評ほどに)好んではおりません。数枚所有していたCD(怪しげライヴ)も、ほとんどオークションにて処分してしまいました。これ以上付け加えることもないが、たった今現在の聴取印象を少々追加。
優雅な演奏ではなく、アンサンブルを整えることより勢いを重視したものでしょう。第1楽章提示部繰り返しはあって然るべしであって、納得であります。曲が進むほどアツく、劇性を増す、断固たるカッコ良い「運命」〜馴染みの”優雅なるウィーン・フィル”とはほど遠い姿でしょう。リズムが決然として切れ味ある男性的な色気有。これは精神状態が、かなり良好じゃないと聴けない音楽。
第2楽章は流れよく、朗々として前向きだけれど、キレイにまとめようとしたものではない。緩徐楽章に間違いないが、ここでも推進力がうねります。ウィーン・フィルは颯爽と美しい。第3楽章の物々しくも怪しい雰囲気から、ウィンナ・ホルン(エエ感じにツブれております)の一撃に痺れます。あくまでノリノリのリズムを崩さない。中間部の明るい驚異的躍動に心躍ります。やがて密やかに迫り来る爆発へ粛々と歩みを進めます。
終楽章はまさに”ゾクゾクするような生理的な快感”であって、これはBeethoven の新機軸なのでしょう。(やはり繰り返しが嬉しい)フルトヴェングラーの「精神性」(時にたしかに、そんなものを感じないでもない)ではなく、もっと人間が本来所有している本能のような快感がありました。ムリムリな作為ではなく、最大跳躍のための理想的フォームのような美質也。これほど燃える、粗削りなウィーン・フィルも滅多に経験できぬ。
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