五味 康祐 「音楽巡礼」

「失われた文庫本」発見
新潮文庫 1981年発行 320円

 この文庫、探しても見あたらなくて悔しがっていました。じつは知人に貸していたみたいで、このたび(数年ぶり)無事ワタシのもとに戻って参りました。ずいぶん古本屋も覗いたけど見つからなくて、けっこう貴重かも。内容は深くて、重くて、哲学的でもあり、作者の人生でもある。十数年前に初めて読んだときは、もっと素直に(内容に)入れた記憶がありますが、このたび読み返すとツラい。苦しい。

 この人、音楽的には素人(と自分で呼ぶ)で、オーディオに造詣が深い方でしたが、「音楽の聴き方」についてはこんなに厳しい人を知りません。おそらく、まだ若かったワタシはその孤高の姿勢に心酔したのでしょう。いまでは、もっと気軽に、あまり難しいことを考えずに音楽を聴くようになりました。ワタシの変容であり、時代の変遷〜CDの登場、価格の下落、「権威」の失墜〜なのでしょう。

 バルトークの弦楽四重奏曲は最後まで聴くことが耐えられない。音楽が止んだ後の「音のない沈黙」の甘美。
中古のレコードで聴いた、少年モーツァルトの交響曲から感じられる「偉大さ」〜後年の傑作をわずか8歳で実現している天才。あらゆる私事・生活感を音楽に感じさせない驚き。

 シベリウスは晩年に向けて技術的に成熟していたが、若い頃に楽想が枯渇していたこと。(ワタシはむしろ、まだシベリウスが現在ほど一般に行き渡っていなかった存命中に、一部の日本の愛好家たちが細部まで音楽を深く聴いていたことに驚きを感じました)
   ラヴェルとドビュッシーの本質的な違いの分析。歌劇「ペレアスとメリサンド」がなぜつまらないか、という哲学的な結論。

 「死と音楽」における「モーツァルトのレクイエム」。ケネディの葬儀におけるラインスドルフ盤録音の冒涜。(演奏の質ではない、LPを売り出すことへの。ワタシは高校生の時、音楽室で一度だけ聴いたが最高の演奏だった、と今でも信じています)作者が起こした死亡事故は、この曲でどれだけ癒やされたことか、という思い出。リヒターに比べて、カラヤンのなんと堕落した演奏(という五味さんの評価だが、同感)。

 「日本のベートーヴェン」の解析は深く、重苦しい時代の反映があります。「音楽は頭で考えるものではない」というフルトヴェングラーの言葉。若者の時代に「運命」を通るか、モーツァルトのト短調交響曲を通るか、貧乏人ほど「運命」に共感しやすい・・・・。理解はできるが、おそらく現代では、どの若者も「運命」は通らなくなり、さらにモーツァルトも消えてしまった、とワタシは思います。

 〜こういった内容で、本は進んでいって、なかなか読み進めない。そんなに厚い本じゃないのに。

 後半で「レコードと指揮者」という一文があり、作者の世代的にレコードの普及がそれだけ新しい音楽への道を開いてくれたか、を説得力を持って明示します。「本当に価値ある生演奏とは」ということで、フルトヴェングラーが1945年1月ベルリンでの戦前最後の演奏会の逸話、また、戦後1947年に復活したときの聴衆の渇望と熱狂を挙げています。

 多分に叙情的であり、自分の苦しい人生経験とダブらせていて、いまの時代にあまりにも違和感がありすぎる著書かも知れません。冒頭に書いたように、青年時代のワタシはこの本を愛読し、人生の苦しみはすべて自分が背負っているかのような、そんな共感に溢れていました。

 いまは厚かましくなり、贅沢になり、心身共に肥満し、音楽は難しいことを考えずに聴くようになりました。いったい、どちらが人間らしく、幸せなのでしょうか。  


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written by wabisuke hayashi