Mahler 交響曲第8番 変ホ長調
(ピエール・ブーレーズ/シュターツカペレ・ベルリン/合唱団他)


DG  4776597 Mahler

交響曲第8番 変ホ長調

ピエール・ブーレーズ/シュターツカペレ・ベルリン/合唱団/カルヴ・アウレリウス少年合唱団/ベルリン放送合唱団
トワイラ・ロビンソン(sT:罪深き女)/エリン・ウォール(sU:贖罪の女)/アドリアネ・ケイロス(sV:栄光の聖母)/ミシェル・デヤング(aT:サマリアの女)/シモーネ・シュレーダー(aU:エジプトのマリア)/ヨハン・ボータ(t:マリア崇拝の博士)/ハンノ・ミュラー=ブラッハマン(br:法悦の神父)/ロベルト・ホル(b:瞑想の神父)

DG 4776597 2007年4月(ベルリン、イエス・キリスト教会録音)

 すっかり日常の音楽として定着したMahler 、種々多様に全集CDが発売され、ネットを拾えば全曲画像付きで拝聴も可能でしょう。わずか20年程前20世紀中にはLPCDとも高価であって”日常”に非ず、長大なMahler は特別な音楽であったはず。子供の頃から聴いていたのはせいぜい交響曲第1番ニ長調(ブルーノ・ワルター/コロムビア交響楽団1961年)、社会人になってから順繰り馴染んで、最後まで苦戦したのが「千人の交響曲」であったと記憶します。FMエア・チェック(安物カセット)したバーンスタイン/ロンドン交響楽団(1966年)は阿鼻叫喚混沌混迷の渦に巻き込まれて困惑ばかり、ジョージ・ショルティ(1971年)の駅売海賊盤は刺激的な威圧抑圧が耐えられなかった。いずれ当時の耳、オーディオ環境の範囲だから、現在ならもうちょっと異なった印象に至ることでしょう。

 ま、2部からなる大カンタータ(どこが交響曲やねん)第2部至ってはノン・ストップ一時間ほどの長丁場でっせ、聴き手のテンション集中力が問われる難曲なのでしょう、ド・シロウトには。貴重な生演奏体験(2006年広上淳一)が最終的に愁眉を開いて爾来、お気に入り作品に至ったものです。17年掛けて全曲録音を果たしたブーレーズの全集は賛否両論、この第8番も演奏録音とも評価は割れております。かつては著名評論家からボロカスに云われたもの、最近なら世評が割れるものほど興味有、音楽って嗜好品ですから。(録音評価も”せっかくスタジオ録音した割には分離の良くない響きが残念”vs.”まず録音の良さにビックリ”〜正反対のリスナーコメント有。オーディオさえ嗜好の世界があるのですね)

 某コメント曰く「SKBがよく鳴っていてうまい」vs.「SKBも管のソリストにもう少し魅力があれば・・・」、「残念なのが最後の最後!どうしてここで萎んでしまうのだ!?」「終結へと進む高揚感が減殺されたという印象は否めません」vs.「これほどリリカルに意味深く鳴ったことがかつてあっただろうか」「部分ごとに性格付けをして、それぞれの部分を見事に聞かせてくれる。抜群に上手い交通整理。結果とんでもなく美しい」etc・・・人それぞれ、求めるものは違うということでしょう。但し、○×とは芸術家としての桁が違う、みたいな言い方はご遠慮、人によっては短所がそのまま長所(あばたもエクボ)もありますよ。(”ショルティ盤を聴いたけれどやたら金管が目立ち興醒め”というご意見こそ代表例)閑話休題(それはさておき)

 第1部 賛歌「来れ、創造主なる聖霊よ」。ブーレーズ否定派のある方は、冒頭の弱さに(いきなり)がっかりとのこと。しかしワタシは冒頭のぶちかまし(阿鼻叫喚混沌混迷の渦)に耐えられなかった。なんせ「千人」(初演は看板に偽りなしとのこと)の大イヴェントでしょ?大アンサンブルを統率する意味も込めて、一発精一杯頑張って行きましょうや!そんな気持ちも理解できます。こちら必要十分な力感、整理整頓声楽含めバランス良好、各パート(とくに声楽)がとてもリアル、わかりやすい。録音のマジックでないでしょ?40年以上前SONY録音時代から似たようなクリアなサウンドだったし。あくまで貧者のオーディオ環境前提に(エラソーに)音質問題は”せっかくスタジオ録音した割には分離の良くない響き”(某リスナーのコメント)印象に一理有。各パートは明晰に役割を理解できるけど、会場空気感や奥行き、残響に(ほんのちょっぴり)贅沢な不満を感じます。(贅沢やなぁ、昔のバーンスタインを思い出せ!)ウィーン・フィルやシカゴ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団と比較したら、そりゃ各々個性が異なりますって。SKDって、どちらかというと独墺古典〜初期中期浪漫派に適性のあるマイルドなサウンドなのでしょう。管のソリストにも魅力たっぷりありまっせ。

 オルガンの存在(低音)を基盤に据え、声楽ソロ、合唱とも表情豊か、メリハリ充分、いつもはクール、浪漫の油脂分抜けきったブーレーズも充分燃えている、爆発していると聴きました。管弦楽の内声部とか対旋律とか、いままで聴いたことのない効果的な絡み合いを発見可能、オーケストラの金管に不満?そりゃ英DECCA録音+シカゴ交響楽団金管の切れ味大爆発をリファレンスにするとそう聞こえるのかも。味わいある、印影に富んでニュアンス豊かなサウンドに中庸なテンポ設定、これほどわかりやすい「賛歌」は初体験。

 さて、問題は第2部 ゲーテの「ファウスト 第二部」から最後の場。例のノン・ストップ一時間ほどの長丁場でっせ。もちろん聴き手の馴染み、努力、根性も必須の山場。専門家の分析によると「旧来の交響曲の構成に則り、アダージョ、スケルツォ、終曲+コーダとという部分に分けて考えることができる」なるほど。やっぱ交響曲なんやな。なるほど第2部冒頭の静謐な管弦楽+合唱〜「法悦の教父」(br)〜「瞑想する教父」(b)がアダージョだったのですね。第1部の阿鼻叫喚との対比を味わい深く、ていねいに描き込んでオーケストラは緊張感とニュアンスが美しい。弦が深いですね。管のソリスト云々は例えばベルリン・フィル辺りの官能性を期待しているのか。テンポは速くはないが、遅いとも感じぬ適正感有。「法悦の教父」は端正(往年の録音に比べると線が細い?)、「瞑想する教父」はいかにもWagnerのオペラっぽい雄弁(ロベルト・ホル)であります。

 男声ソロとオーケストラ伴奏はまったく混濁せず、クリアな響きが続きます。

 天使たち(児童合唱)が登場する「スケルツォ」相当部分へ。女声合唱が基本であり、重く厚い男声ソロと軽妙軽快繊細に対比され、音楽は入念に変化を表現しております。ここもぼんやり見逃していた旋律あちこち発見、ミシェル・デヤング(サマリアの女)はしっとりとしてエエ感じでっせ。ややテンポ・アップしてヨハン・ボータ(マリア崇拝の博士)も輝かしく登場します(ド・シロウト耳にはペーター・シュライヤーに似ていると思う)。「スケルツォ」相当というのは軽重の問題?しっとり清冽であって、軽妙に非ず。なんという響きの整理整頓、洗練された静謐、耳当たりのよさ。(ちなみに「耳障りのよさ」は誤り。耳触りの意味なんやろうな)

 静謐な管弦楽+合唱にて「終曲」(?)へ。響きの明晰なこと、弱音が表現の弱さに至らぬ説得力(聴き手の集中力必須)、ゆったりと音量を上げて高貴な雰囲気盛り上がりつつエリン・ウォール(贖罪の女)トワイラ・ロビンソン(罪深き女)登場、はかなく可憐。ミシェル・デヤング(サマリアの女)、シモーネ・シュレーダー(エジプトのマリア)絡み合って重唱となります。終曲と呼ぶにはあまりに繊細静謐、天国のように美しい音楽続きました。「コーダ」への「間奏曲」的位置付か、エリン・ウォール(贖罪の女)+カルヴ・アウレリウス少年合唱団は天使のよう。

 ラスト「コーダ」にアドリアネ・ケイロス(栄光の聖母)登場。生体験では2階席より天上の声を響かせておりました。ヨハン・ボータ(マリア崇拝の博士)は朗々端正に高揚して、いよいよクライマックス〜ラストが近いことを予感させます。万感に胸に迫る「神秘の合唱」(全声部)登場、第1部第1主題回帰してようやくフル・オーケストラは爆発します・・・ここまでが長かった!抑制された金管の響きは充分魅力的じゃありませんか?

 ラスト、某リスナーの嘆き「最後の最後!どうしてここで萎んでしまうのだ!?」ブーレーズは浪漫の残滓を全部流し去って、これで良いんです。合唱弱音のコントロールされた静謐もお見事!ベルリン放送合唱団はたしか録音用に連れてきたんですよね(ライヴでは別団体だったはず)。萎んだとも、萎(な)えたとも感じない、要らぬ力みがないだけ。

 昨夜から2−3度繰り返して厭きることなし。このような経験は滅多にないもの。

(2015年1月31日)


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written by wabisuke hayashi