Mahler 歌曲集(ディードリヒ・フィッシャー=ディースカウ/
カール・ベーム/ベルリン・フィル)


これはDG 138 879SLPM Mahler

歌曲集「さすらう若人の歌」

ウィルヘルム・フルトヴェングラー/フィルハーモニア管弦楽団(1952年)*
(1)恋人の婚礼の時(2)朝の野を歩けば(3)僕の胸の中には燃える剣が(4)恋人の青い目

歌曲集「リュッケルトの詩による歌曲」
(1) 真夜中に(2)ほのかなかおりを私はかいだ(3)私の歌をのぞかないで下さい(4)私はこの世に忘れられ

歌曲集「亡き子をしのぶ歌」
(1)いま太陽は明るく昇る(2)いま私には分かるのだ(3)おまえのお母さんが(4)よく私は考える(5)こんなひどい嵐の日には

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/カール・ベーム/ベルリン・フィル(1963年)

この組み合わせはECHO INDUSTRY ECC-658(駅売海賊盤

 現在では*EMI音源が、クーベリック(1968年)に差し替わって、これは恥ずかしい駅売海賊盤。1990年台1,000円(当時激安)にて入手。駅売海賊盤は既に死語、手元にあるCD在庫は正規レーベル盤でも処分は難しくなって、ましてや怪しげな存在はBOOK・OFF@280コーナーにて懐かしく見掛けるくらい・・・子どもの頃からの音楽好き(=ワシ)でさえ、その存在を忘れていたものでした。それでも30年ほど前、合成樹脂に刻まれたディジタル・データは劣化もなく現役、素晴らしい音楽を聴かせてくださいます。それだけで【♪ KechiKechi Classics ♪】コメントは終了させたいくらい。

 Wilhelm Furtwangler(1886ー1954独逸)もKarl Bohm(1894ー1981墺太利)も往年の巨匠、この二人のMahlerは珍しいもの。Dietrich Fischer-Dieskau(1925ー2012独逸)も後継の若者たちに多大なる影響を与えて、既に故人となりました。録音をたくさん残した世代が次々鬼籍に入って、オールド・ファンは後ろ向きに懐かしく、嘆くばかり。でも、音楽は現役なんですよ。主に言葉の壁のせいか、声楽作品は拝聴機会は少なくて、Mahlerには別格の愛着を感じるのはこのCDのお陰かも。詳細日本語解説付き。

 歌曲集「さすらう若人の歌」は交響曲第1番ニ長調第1楽章に登場(「朝の野を歩けば」)して、親しみやすいもの。例の如し、語りかけるように表情豊かなフィッシャ=ディースカウの歌唱は微に入り細を穿つもの。嘆きの失恋色濃い「恋人の婚礼の時」、「朝の野を歩けば」は懐かしい旋律にファルセットの抜き方の上手いこと。フルトヴェングラーはいつもの熱狂に非ず、入念な伴奏に徹して明晰な響きを実現しております。音質も良好。「僕の胸の中には燃える剣が」に於ける妄想の執念の激しさ、情感の爆発。「恋人の青い瞳」は交響曲第1番第3楽章に引用されて、これもお馴染み。テンポは遅め(交響曲と速度指定が違うのかも)重い足取りに、やがて浄化されていく心情がしっとりていねいに表現されました。最高。

 歌曲集「リュッケルトの詩による歌曲」から伴奏はカール・ベームへ。これも珍しい存在かと。(ちゃんとしたステレオ音源音質良好)「美しさゆえに愛するのなら」(Liebst du um Schonheit)が抜けております(作曲者による管弦楽伴奏なないそう)。「真夜中に」は表題に相応しい落ち着いた風情がしっとりとした木管中心(弦はなし)に表現され、バリトンの知的な風情と調和します。後半の大きなスケール(金管ハープティパニ参入)も聴きもの。「ほのかなかおりを私はかいだ」は、恋人から渡された菩提樹の枝に愛の香りを感じる短いメルヘンでっせ。「私の歌をのぞかないで下さい」は”Lieder”を詩集と訳しているものがあって、これもウキウキとしたユーモラスな愛の歌でしょう。

 「私はこの世に忘れられ」は自分にとって別格。カスリーン・フェリアがブルーノ・ワルターと録音したものを愛聴してきました(ウィーン・フィル1952年)。冒頭の低いオーボエ+低弦ピチカートに乗って、沈溺して深呼吸するような浪漫風情に、やはりフィッシャー=ディースカウは知的に落ち着いております。

 歌曲集「亡き子をしのぶ歌」。表題からの内容通り、バリトンなら父親の心情の吐露でしょう。名人揃いのベルリン・フィル木管もベームの手に掛かるとやや地味めに響いて「いま太陽は明るく昇る」途中に登場する弦の艷やかなこと!ホルンの深いこと。冷静に抑制された”父親の嘆き”、ラストはまるで仏壇の鈴(りん)のよう。「いま私には分かるのだ」に於ける高音域の抜き方の上手さ、時に絶叫の表情付けバランス絶品です。鳴り渡るフルート、ホルン、オーボエの間合いも。低いハープはMahlerの世界でしょう。

 「おまえのお母さんが」は途方に暮れ暗鬱な木管に導かれて、喪失の嘆き絶頂へ。「よく私は考える」〜ただ散歩に出かけただけなんだと。二度と帰らぬけれど。温和柔和な音楽風情がいっそう哀しみを際立たせて、泣けまっせ。ここでは弦、ホルンとバリトン(強弱陰影表現無双)が絶品の掛け合いでしょう。「こんなひどい嵐の日には」は激しくも不安な管弦楽は深く、大きな響き。怒りに充ちた父親の叫びが表現されました。荒れ狂う天候に誰かがこどもらを戸外へ連れ出したのだ、と。

 先に書いたように”微に入り細を穿つ”表現とはこのこと。フィッシャー=ディースカウは未だ30歳代だったんやな、たいしたものです。カール・ベームの抑制された伴奏も作品に似合って絶品でした。

(2019年5月26日)

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written by wabisuke hayashi