Mahler 交響曲第7番ホ短調
(ベルナルト・ハイティンク/コンセルトヘボウ管弦楽団 1969年)


PHILIPS 442 050-2 Mahler

交響曲第7番ホ短調

ベルナルト・ハイティンク/コンセルトヘボウ管弦楽団

PHILIPS 442 050-2  1969年録音 10枚組3,050円(中古)にて購入したウチの一枚

 サラリーマン生活も黄昏時を迎え、子供の頃〜若い頃には贅沢品だったLP、CDは日常のもの(更には衰退媒体へ)と至りました。前回更新より8年、光陰矢の如し。ハイティンクは引退し、彼のMahler を全部CDで集める意欲も途中失念(いくつかは処分さえ!)このMahler 交響曲第7番ホ短調も、コンセルトヘボウとの再録音、ベルリン・フィル盤もとうとう拝聴する機会を得ません。大好きなMahler も徐々に聴取機会が減っていて、第2/3番辺りかなぁ、あと第9番くらいか、日常耳にするのは。ネット検索しても、この1969年旧録音に言及しているのは【♪ KechiKechi Classics ♪】のみか?・・・久々の拝聴感触はとても爽やか、快いものでした。

 ここ最近聴いた中では、ジエイムズ・レヴァイン/シカゴ交響楽団(1980年)に好感を得て、曰く

”この作品が本来持っている(であろう)怪しさ、晦渋さ、ふっとんでしまいました。明るい、細部明晰なる”上手い”演奏也。よくできた名曲、そんな作品イメージへ。大曲に挑む!的風情に非ず、著名なる名曲にワタシも取り組んでみました、的美しい仕上がりです”
 このハイティンク旧録音も素直、オーケストラの技量余裕なる美しい演奏だと思います。全76分、CD一枚に収まりました。故・柴田南雄先生によるとこの作品の白眉は第2楽章〜第4楽章とのこと。所謂「夜の歌(=セレナーデ)」という表題の出典になっていて、親密甘美な歌に溢れ、いつもの巨魁勇壮なるスケールとは異なる風情の作品。しかも、滅茶苦茶怪しくも気怠い第1楽章「Langsam (Adagio) 」、ムリヤリ勝利の雄叫びが不自然唐突なる終楽章「Rondo-Finale」(Wagner「マイスター」風)が、全体バランスとして難しい作品と思います。

 第1楽章「Langsam (Adagio)−Allegro risoluto, ma non troppo」〜まるでBach の管弦楽組曲フランス風序曲のような付点リズムの開始、生暖かいテノール・ホルンの中途半端な響きが怪しい雰囲気を助長します。ハイティンクは楷書の表現、クリアなフレージングにて重苦しさ、怪しさ、大きさを強調しません。第6番第1楽章の行進曲風?であったり、その歩みを止めたり、めまぐるしく雰囲気変遷して落ち着かない。第3番のポストホルン風?も出現するし、第2番「復活」ラストの木管の呼び声風有、この楽章をまとまった印象で統一するのは至難の業なのでしょう。清潔、明快なサウンド、ていねいな仕上げにてハイティンクは一貫しております。

 第2楽章 「Nachtmusik I. Allegro moderato」〜夜曲(1)。冒頭ホルン(の呼び声が奥深い音色お見事)にて爽快。それが呼び水となって幻想的優雅な雰囲気(長調なんだか?短調なんだか、よくわからぬ)溢れ、甘美な歩みの楽章であります。行進曲+カウベル登場といえば前作第6番でしょ。しかし、こちらのほうはいっそう沈静した行進曲なんです。しかもシンプルな繰り返し旋律。粛々淡々とした歩みがわかりやすい。この辺りはオーケストラの技量モロに出ますね。木管の絡み合いもささやきあうように繊細。

 第3楽章 「Scherzo. Schattenhaft」(影のように。流れるように、しかし早すぎずに)〜細かい音型連続、一陣の疾風が吹き去るような、さらりとした(カッコ良い)作風であって、これも静謐な怪しさが漂い、走り抜けます。不気味に急いた「死の舞踏」(ワルツ)風でもある。中間部の間奏も儚げであって、完全には晴れ間は出ない感じ。ピツィカートは相当に衝撃的。第4楽章 「Nachtmusik II. Andante amoroso 」〜夜曲(2)。この辺り(ギターやマンドリン)を拝聴すると新ウィーン楽派をそのまま連想させますね(SCHO"HNBerg)。ノンビリしているのに、怪しい、妖しい空気が濃密に広がります。結局、第2-4楽章は室内楽的な、あまり柄を大きくしない内省的な音楽ばかり続いて、全交響曲中でも特異な作風なのでしょう。

 こういった作品にはハイティンクの生真面目、清潔な表現がよく似合います。実力あるオーケストラに細部任せて、美しい旋律をストレートに浮き立たせております。

 第5楽章 「Rondo-Finale. Allegro ordinario」。前4楽章の気怠い雰囲気とは打って変わって、一見ノーテンキ、パッパラパーな作風に戸惑う終楽章也。たしかバーンスタインの旧録音が上手いこと全体を構成していた記憶有(正規盤入手済)。ハイティンクは真っ当に、ストレートに、きちんと仕上げて特別な作為はありません。こんな作品です!といった確信か、高らかに、美しく歌って、これはこれでスタンダードに仕上げているのでしょう。

 音質自然体。久々、数日(数週間)掛けて全曲、しっかり拝聴いたしました。2003年9月11日渋谷の中古屋にて10枚組入手、そろそろ10年か。エエ買い物をしたものです。

(2012年5月5日)

 個人的感傷になるが、まだ外資系の大型ショップ登場以前の1970年代、(売れていたのか、評価はどうだったのかはともかく)LPで「ハイティンク指揮全集物」をしばしば見掛けたものです。CD10枚組と、LP10枚組とではその迫力、圧倒的存在感、重量感の桁が(もちろん価格も)違いました。オーディオ装置も音楽媒体も、時代はコンパクト化に進む(行き着く先はデータ・ダウンロードか)が、音楽の価値とは無関係とはいえ、この価格には一種感慨がありました。

 中古とはいえ、正規PHILIPS全集がこの価格(たしか、一割引だったような記憶も有。1980年代CD一枚分の価格)。その後、ライヴ(クリスマス・マチネ)選集が出たり、ベルリン・フィルとの新録音が出たり、評価的には芳しくないのかも知れません。しかし、ワタシにはこの第7番に少々思い入れがある。故・柴田南雄先生の「グスタフ・マーラー」(岩波新書)〜これほどの名著は滅多にない〜もともと、FM放送原稿を本にまとめた(逆かな?)もので、ワタシは当時(1980年代)せっせとタイマーを駆使しつつエア・チェック(カセットの絵柄まで記憶している)したものです。

 ハイティンク全集中、第7番を聴いていると記憶が蘇ってきました。そう、柴田先生はFM放送で第7番の第2/3/4楽章を取り上げ、それはこのハイティンク/コンセルトヘボウ管の演奏であった(但し、1982年の再録音だと思うが)、と。おそらくその時点では、マズア/ゲヴァントハウスのCDを所有しており、この作品には歯が立たなかったはず。で、柴田先生の解説共々、この作品に目覚めました。爾来、ワタシのお気に入り作品に。すっかり失念していたけれど、個人的Mahler 受容原点みたいな音源(旧録音だけれど)なんです。(日本では不人気作品でして、1937年プリングスハイム本邦初演以来、再演はナント1974年渡辺暁雄/東京都響であった!とは)

 ワタシはロスバウト/ベルリン放響(旧西 1952年)をこの作品の「勝手に個人的標準」にしておりました。曰く「深い溜息のような美しい音楽」「夜の濃密な闇を感じさせる」と。ま、妖しい演奏ということです。それに比して、ハイティンク盤のなんと素直で、清潔、まっとうで、そして美しい演奏であることか。おとなしい。穏健派。(でも、マズア盤とは個性の方向が異なります)少々地味ながら、自然体の録音状態も好ましい。

 第1楽章。冒頭テノール・ホルンの安易で気怠い響きが、一種熱病のような妖しい雰囲気を醸し出す・・・はずだけれど、ハイティンク盤ではずいぶん真っ正直で、「妖しさ」は存在しない。この楽章、ワタシは初耳だと思います。(FMでは放送しなかったから。いやあれは再録音だったか)ハイティンクは「正統的Mahler 交響曲」としてのまとまりを付けようとしているのか。正直、面白みがない、というか、フツウに立派でていねいな仕上げの演奏か。オーケストラの技量になんらの問題はないが。(この部分、全曲通して聴くと評価が変わります)

 第2/4楽章が「セレナード(ナハト・ムジーク)」(これが「夜の歌」の副題へとつながる)になっていて、「窓辺で愛を歌う」ということでギター、マンドリンも入ります。(Scho"nbergの「セレナード」にもギター、マンドリンは入ることを連想)第3楽章には「影のように」という発想表題が付きます。柴田先生は、この中3楽章が白眉だと明言されておりました。いつものMahler とは異なる、室内楽的な静かな音楽です。

 第2楽章の、すっとぼけたようなホルン(良い音色だ)が始まると記憶が蘇ります。いえいえ、CD時代になって細部まで神経の行き届いた、オーケストラの名人芸各パートがいっそう良く理解できますね。Mahler って、大編成・大音響!というイメージがあるが、これはずいぶんと静かな世界。様々な楽器が、短いエピソードを小声で語り継ぐような味わいがあって、それはすべて溶け合って極上に美しい。

 第3楽章は、速めのテンポで不安を煽る「流した」演奏。(演奏的に「適当に流した」ものではない)弦の動きは不気味な風のようであり、刻々と表情が微妙に揺れ動いて、集中力さえあればコンセルトヘボウの美しさをとことん堪能できます。第4楽章の牧歌的な旋律(陰が存在するが)の練り上げられた歌。エキセントリックな表現とは無縁(どうして爆演系ばかりもてはやされるのか?)な、シミジミ味わい深いオーケストラの技量は、こんなところで実感できました。

 終楽章は一生懸命盛り上げちゃうと、音楽のノーテンキさが露呈されます。これまでしっとりと黄昏ていた心象が台無しに。ハイティンクは相当に抑制を利かせ、淡々粛々と端正に仕上げていて、上品さを失いません。それでも、音楽はじょじょに熱気を帯び、自然体での盛り上がりに不足はない。つまり、この作品・交響曲としてのまとまりというか、トータルの味わいはちゃんと計算されているんです。

 そうなると、「フツウに立派でていねいな仕上げの」第1楽章も、そういった構成の意図であったか、と納得できます。事実、全曲が終了して再聴すると、第1楽章もずいぶんと楽しめました。(2004年7月23日)

【♪ KechiKechi Classics ♪】

●愉しく、とことん味わって音楽を●
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written by wabisuke hayashi