Debussy ベルガマスク組曲/前奏曲集第1巻より第1/3/9/11曲/第2巻全曲
(スヴャトスラフ・リヒテル(p)モスクワ音楽院大ホール・ライヴ)
Debussy
ベルガマスク組曲(1979年)
前奏曲集第1巻より第1番「デルフィの舞姫」/第3番「野を渡る風」(1976年)/第9番「とだえたセレナード」/第11番「パックの踊り」(1961年)
前奏曲集第2巻全曲(1967年)
スヴャトスラフ・リヒテル(p)
(すべてモスクワ音楽院大ホール・ライヴ)MELODIYA CD10011622
彫りの深い表現、ほの暗い深淵、アルカイックかつヤワな幻想ではない圧巻なる強靱メリハリ際立つタッチ、どれもとっても馴染みの、ありがちDebussyとは異なるスケールに驚かされます。問題は「第2巻」でして、これはLP時代1,000円盤にて愛聴した録音なんじゃないか。ほんのこどもだったワタシには理解が及ばぬ難解なる作品だったが、それは刷り込みになったのでしょう。社会人になってギーゼキングの全集を入手した(たしか6,000円!)が、全然イメージと違う!曖昧ではっきりしない (幅広く音楽を聴いた現在ならそんなことはない)と受け付けなかった記憶が・・・(「音楽日誌」2011年9月)
上記言及があるように、Debussyはこどもの耳には少々難解だったことでしょう。Ravel のほうが心情にフィットして聴く機会も多いかも。こちらDebussyはたった今、現在の耳でもあまりに革新的、エキゾチックな旋律和声、一筋縄では行かぬ鮮度を感じさせて下さいました。若い頃に歯が立たなかったギーゼキングも(廉価盤10枚組にて久々拝聴したら)淡々クール明晰、繊細なタッチをちゃんと堪能できるようになりました。
目覚めたのはベネデッティ・ミケランジェリ(1978年)の濃厚なるテイストでしょう。出会いはリヒテル、もしかしたら40年ぶりの再会。日本ではけっこう人気があったこともあって、LP時代、出目のわからぬ音源が出ていたものです。さて「ベルガマスク組曲」始まりました。いくぶん抑制が効いて、ちょっぴり腰の重いタッチ、ゆったりめの前奏曲。例の如し、時に叩きつける強靭さも顔を出すメヌエット、圧巻の深遠さと官能を誇る「月の光」、硬質さとユーモアが交差する「パスピエ」。粋ではないけれど、リヒテルの個性体臭たっぷり堪能できます。音質まぁまぁ。
前奏曲第1巻は、1961年録音分が遠方から聞こえてくる不思議な音質(雰囲気はたっぷり。拍手もリアル)、彫りの深い表現、ほの暗い深淵とはこの辺りの印象か、「野を渡る風」に於ける細かい音形の正確かつ効果的なこと+強靱メリハリ際立つタッチ、「とだえたセレナード」の幻想的な揺れ、「パックの踊り」の自在なリズム感、どれも表層を磨く優等生ではないけれど、個性的な味わい充分であります。
問題の前奏曲第2巻全曲。遠い日の記憶を辿れば、(廉価盤LPは)やはりこれだったのでしょう。”アルカイックかつヤワな幻想ではない”というのはまさにコレ。第1曲「霧」から辺りを覆う、つかみのどころのない湿った空気が感じられる静謐かつ濃密テイスト。「枯葉」は(どんなイメージを感じ取ったら良いかわからぬ)難解気ままな旋律は硬質なタッチで表現され、「ヴィーノの門」は強烈なスペインのリズムが凄い熱気と説得力。「妖精は良い踊り子」も自在過ぎて、けっしてわかりやすい旋律に非ず、リヒテルは変幻自在魔法のように細部描いて、牧歌的味わい深い「ヒースの荒野」の優しさへ。
「奇人ラヴィーヌ将軍」もタッチは強烈でっせ、思わず仰け反るほど。ユーモラスですよね。「月の光が降り注ぐテラス」は静謐幻想的であり「水の精 - Ondine」って、音楽を聴いているだけでディズニー風アニメを連想できるほどメルヘン。「ピクウィック殿をたたえて」の似非荘厳風なる(凄い)迫力と加速の妙(英国国歌「神よ女王を守りたまえ」引用有)、「カノープ (壺)」ってなにを表しているの?風淡々ととした、つぶやくような風情続きます。
「交代する三度」って驚異的テクニック必需品なのはド・シロウトにも理解できる完璧メカニック、華やかな「花火」も同様ですね。これは情景がちゃんと理解できます。「ラ・マルセイエーズ」引用されております。リヒテルって、平均律辺り例外としてまとまった作品集意外と少ない(上記前奏曲第1巻だって部分寄せ集め)し、こうして第2巻一気呵成に、コンサートの空気モロいっしょに伝わって、強烈な熱気を感じました。難曲と思います。所謂オーディオ的なことさておき、音質的にも不満を感じません。聴衆も凄い拍手。 (2013年5月25日)
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