Bruckner 交響曲第9番ニ短調
(ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー/ソヴィエット国立文化省交響楽団)
Bruckner
交響曲第9番ニ短調(1896年原典版)
ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー/ソヴィエット国立文化省交響楽団
Venezia CDVE4368 1985年録音
出会いは若い頃LP時代、オイゲン・ヨッフム/ベルリン・フィル(1964年)であり、壮大、高貴、静謐と爆発、諦念、敬虔なスケールに胸を打たれる名曲であります。音楽そのもの、演奏スタイルの嗜好は日々変化して、オイゲン・ヨッフムの”揺れ、疾走、煽り”表現に耐えられず(新旧全集処分)、かつて新譜が出る度、順繰り買い求めて新鮮なる感銘を受けたゲオルグ・ティントナー全集はオーケストラの弱さ、アンサンブルのテンションの低さに耐え切れません。カラヤンのまったり余裕のスケールはそう悪くないと感じたけれど、もうひと通り聴いたらエエかな?既に処分済。リファレンスはギュンター・ヴァント/ケルン放送交響楽団全集、かっちり構成され、厳しい集中力演奏となりました。晩年の種々演奏も順繰り堪能しております。チェリビダッケは別格の風格を感じる〜閑話休題(それはさておき)
ロジェストヴェンスキー全集拝聴は半分ほど?こんな露西亜風色彩モロな演奏を喜んで聴いているから、正統派独墺系硬派愛好家から馬鹿にされる・・・かも。じつはショルティのも金管高らかな輝きも気に入りました(4曲ほど拝聴)。こちら露西亜勢の演奏は、じっくり腰を据え(腰は落ち着かぬ?)粘着質陰影がわかりやすい(所謂、”語り上手”)表現、木管のぴ〜ひゃら派手な存在感(特殊な版なの?と訝るほど)、金管のむき出し大爆発も凄い。オーソドックス王道に非ず、しかし、これほど変幻自在にノリノリな演奏も稀有でしょう。サウンドも音質も録音も一癖ある荒削り(アンサンブルのことに非ず)なんとも云えぬ、クサいスケールたっぷり堪能いたしました。これはこれで悪くない音質なのでしょう。
壮大、高貴、静謐と爆発、諦念、敬虔なスケールに胸を打たれる名曲のはずが、どーも違う。いや、全然違う、なんか怪しくも愉しい雰囲気があって、自ずと滲み出るユーモア、浮き立つような賑々しさ満載。上手い、そしてクサいサウンドを誇るオーケストラも絶好調。
第1楽章「Feierlich, misterioso(荘重に、神秘的に)」冒頭金管の”神秘的”出足に満足。やがて木管、弦が参集し、込み上げる情感〜辺りから木管の存在感突出して、妙に華やかであります。一般に伝統ある独墺系サウンドというのは管楽器控えめ、弦中心〜結果墨絵のような地味渋サウンドに至って、それがいかにもBruckner!的印象、こちら真反対。弦、金管、木管、各々全然溶け合わず、各々(硬派な)存在を主張して対等平等というか、時に木管の主張が通ったり〜そんな感じ。昔馴染み、細部迄旋律知っているはずの作品は、細部初耳内声旋律たくさん登場いたします。うねるような歌(こぶし)表現は顕著な色彩効果、しかし”揺れ、疾走、煽り”に非ず。ラスト、けっこう走るけどね。その辺り、納得させるのはヴェテランのワザであります。
圧巻は第2楽章「Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell(スケルツォ。軽く、快活に - トリオ、急速に)」所謂「法華の太鼓」的熱狂と昂揚楽章。”木管のぴ〜ひゃら派手な存在感”はここに顕著、金管大爆発は生命のエネルギー、脂っこい精力たっぷり感じさせます。フツウだったら悲痛な叫び!みたいな楽章(ニ短調)なのに、全編を支配する楽観的なユーモアも顕著な個性でしょう。なんか、とても佳い経験をさせていただいた、そんな(ある意味)爽快な気分に至りました。
終楽章「Adagio. Langsam, feierlich(アダージョ。遅く、荘重に)」作曲者指示通り”荘厳”な楽章。ロジェストヴェンスキーは例の如し、あちこち微細(大胆)な味付け施して、彼なり荘厳、ていねいな仕上げを施して、結果表情豊か(ここでも木管の突出は顕著)。そして高らかに金管のコラール風大爆発!これは期待通り、いかにも金属的、デリカシーも深みも(作品相性として)少々足りぬ露西亜風であります。ピッチも少々違う?静謐感が足らぬ?素直に天上に登らない、明るい世俗感満載なる「アダージョ」もひとつの個性であります。
音楽は個性だ!1931年生まれの巨匠も80歳過ぎて、そろそろ引退でしょう。得難い個性であります。
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余禄。交響曲第9番ニ短調第4楽章(1986年ニコラ・サマーレ、ジュゼッペ・マッツーカによる補筆完成版)1988年録音。未完の大曲終楽章には「テ・デウム」が相応しい(所謂「第九」みたい)と思うけど、作曲者が完成断念したスケッチによる復元作業とのこと。Mahler の交響曲第10番ほど普及しておりません。第3楽章「アダージョ」は意外と完結感満載ですし。後期作品に馴染みの終楽章パターン激似、例の如しエゲつないヴィヴラート満載ホルン活躍して(一年ほど前の感想は) 自筆草稿がどのくらい残っているか知らぬけれど、第1楽章の素材も登場しつつ、第5番、第8番の手法を活かして再構成、それなりの仕上がり〜但し、どーも有機的なまとまりに非ず、エピソードの羅列+それらしいサウンドといったところか。悪くないっすよ。ロジェストヴェンスキーは”語り上手”だし
〜そんな印象と変わらず。慣れですかねぇ。 |