Bruckner 交響曲第7番ホ長調
(ヘルベルト・カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー)


DG 429 226-2   1989年録音
Bruckner

交響曲第7番ホ長調

ヘルベルト・カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー

DG 429 226-2 1989年録音  中古500円で購入

 カラヤン最後の録音。ずいぶんと売れたみたいで、中古でもたくさん流出しました。当時評価も高くて「晩年の清明なる境地」との論評を見た記憶もあります。これはもう6年ほど前に購入してあったもので、なぜか聴く機会を得ず、このたび初めて実際の音として確認しました。

 結論。老いて哀れなカラヤン〜好き嫌いを越え、圧倒的な説得力と自信に溢れた、かつての彼の姿はどこに行ったのでしょうか。まず、録音がよろしくない。これがあのウィーン・フィル?というくらい、弦に、木管に、金管に艶を感じない。トータルとしてコンポで部屋を響かせるとそう気付かないが、ヘッドホンで確認するとひとつひとつのパートの音に芯がない。乾いている。いや、これは録音のせいだけだろうか?

 弱音での緊張感の欠如、時に音量は大きく鳴り響くが、圧力を感じない。「精神の響きを!」「魂がこもっていない」みたいなムズかしいことを抜きにして、とくにかく圧倒的物量パワーでもいいや、結論的に出てきた音楽が弱い。旋律の歌い回しに自信が見えない。

 表面上のアンサンブルの傷やら、加齢から来る運動能力としてのテンポ・ダウンが・・・ということではなくて、それらのハンディキャップを乗り越える「老人力」というか、ヴェテランのワザってあるでしょ?日本人音楽ファンは敬老精神も含めて、そんなの好きじゃないですか。(ワタシもそう)でも、これは違うでしょ。

 第1楽章は推進力が足りない。そろりそろりとやっとこさ歩んでいるだけ。時に大声を上げつつ(例え話しです)。有名な「アダージョ」には期待しましたよ。でもね、どんどん裏切られてテンションが維持できない。一種麻薬のような、音楽が進むにつれての陶酔を期待したが、中途半端な厚化粧の名残りあるのみ。強奏で響きが濁る〜ようやく出た(美しからぬ)大きな音の後の余韻〜”抜け”にほっとしますね。

 Bruckner交響曲すべてのキモ「スケルツォ」〜爆発するエネルギー、ハジけるようなリズムを期待したいところ。こんな”薄い”カラヤンって有ですか?これは物理的な求心力の不足なんだろうと思います。ノリはまったく足りない。終楽章は躍動には遠く、息も絶え絶え、かつての栄光が空虚に大音量で鳴っている・・・

 ワタシはフィルハーモニア時代の颯爽としたカラヤン、1960年台の鼻持ちならない怒濤のエネルギーやら、砂糖甘すぎてミソもクソも「カラヤン色」にしてしまったこと、支持するしないは別として、あれは偉大なる個性だったと思うんです。こんな老いさらばえたカラヤンは見たくない。正直、ワタシの愛するBruckner交響曲第7番・その曲とは聞こえません。

 枯れてヨレヨレとなったこの演奏を愛する人もいることでしょう。あらゆる虚飾を捨て去った、これこそが真の芸術だと。じゃ、「ばらの騎士」(ウィーン・フィル 1982年)の極限の官能性(わかりやすく言い換えると、とてもとってもエッチな演奏)、Beethoven 交響曲第5番ハ短調(ベルリン・フィル 1962年)の銀色に輝くスピードの輝かしさはなんだったのかと伺いたい。曲が終わって正直脱力。(2003年12月12日)


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written by wabisuke hayashi