Bruckner 交響曲第5番 変ロ長調(ゲオルグ・ティントナー
/ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)


NAXOS 8.553452 Bruckner

交響曲第5番 変ロ長調

ゲオルグ・ティントナー/ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

NAXOS 8.553452 1996年録音 

 去る者日々に疎し。ゲオルグ・ティントナー(Georg Tintner, 1917ー1999)は20世紀に寿命が尽きてしまい、残されたBrucknerの交響曲全集もほとんど話題に上らなくなりました。NAXOSはいつでも聴ける(希少盤!入手困難でっせ、みたいな状況に非ず)そんなシステムを作り上げてくださって、音楽を万人のものにしてくださっております。これはCDが発売され、話題沸騰となって毎月愉しみに買い足していったもの、そんな新鮮な心を聴き手(=ワシ)は失いました。以下に十数年前の更新が残って、それに言いたいことは尽きております。

 じつはBruckner作品中一番のお気に入りが、この交響曲第5番。物欲(スケベ根性)枯れつつある今日このごろ、久々のゲオルグ・ティントナーをどんなふうに受け止めるのでしょう?リンク先のニュージーランド交響楽団は情報誤り)第1楽章「Introduktion: Adagio - Allegro(序奏部:アダージョ - アレグロ)」低弦のピチカートは奈落の底へ誘う漆黒の階段、そして巨大なる障壁が!みたいなイメージの出足。金管のコラールが神々しく響きます。テンポは中庸、強烈に煽ったり走ったりしない、オーケストラも強烈な個性を主張するサウンドに非ず、全体に”やや弱い”誠実を感じさせて、かつてどなたかが言及された”癒し系”かも。ややおとなしい印象が強いのは(飾りのないリアル自然な)録音も影響しているのでしょう。強靭な推進力ではないけれど、ここぞというところの金管の爆発対比はみごとなものでしょう。(20:15)

 第2楽章「Adagio. Sehr langsam(アダージョ、非常にゆっくりと。)。華麗なる加齢を重ねると緩徐楽章を好むようになる・・・ここもテンポは中庸、強烈に煽ったり走ったりしない、路線は同様。心持ち速めのテンポは淡々と、そしてこの”やや弱い”誠実に耳慣れると、その流れが快く感じるように至りました。粛々とした感動が楚々として充ちてくる感じ。オーケストラの音色はほんまに淡白でっせ。色濃い威圧感皆無。(16:23)

 第3楽章「Scherzo. Molt vivace, Schnell - Trio. Im gleichen Tempo(スケルツォ:モルト・ヴィヴァーチェ、急速に、トリオ:(主部と)同じテンポで。)。Brucknerを愛する人だったら誰でも知っている「スケルツォは作品のキモ」、どこかのサイトで「全集の良し悪しはスケルツォだけ聴けばわかる」そう豪語された方がいらっしゃいましたっけ。ここはオーケストラの威力絶大なのが好ましい、例えばベルリン・フィルとかショルティのシカゴ交響楽団とか。この楽章は少々テンションが足りないと云うか、もっさりとしてもうちょっとメリハリ+元気が欲しかったところ。オーケストラ大爆発!みたいのはティントナーの個性じゃないでしょう。この抑制を愛する方もいらっしゃることでしょう。各パートのリアルな動きは意外と精密、中間部のレントラーはよろしいかと。(14:12)

 終楽章「Finale. Adagio - Allegro moderato(終曲。アダージョ - アレグロ・モデラート)には第1楽章漆黒の階段が再現され、これがなかなかの荘厳。第1楽章第2楽章の主題が回帰して、やがて決然とした第1主題の歩みは力強い説得力もあり、第2主題(第3楽章のレントラーの変形)は軽快に走って、そして優雅に歌います。この辺り器用じゃないけど、なかなかの語り上手。オーケストラのアンサンブルも微細なテンポの動きによく付いておりました。やがて第3主題(第1主題の変形)が力強く推進して、荘厳なる金管コラール登場。この辺り、馬力のあるオーケストラ大音量で聴きたいところ、ティントナーには常に抑制が利いております。

 やがて静かにコーダを迎えてクライマックスへ盛り上がる最終盤。これはフーガですか?滅茶苦茶カッコ良いところ!が少々オーケストラの響きはおとなしく淡白、耳をつんざく決然とした爆発に足りぬ感じ。テンションは少々低くても誠実な歩み、82歳の老マエストロは渾身の力を込めてラスト盛り上げて(焦点はここにあった!)最後迄しっかり導いて下さいました。(25:55)

(2019年3月31日)

11枚組2,625円(税込)円で(再)購入

 ゲオルグ・ティントナー(Georg Tintner, 1917年5月22日 - 1999年10月2日)1997年に発売された、この交響曲第5番を第一弾として、ずいぶんと話題となったBruckner全集だけれど、彼の逝去以来じょじょに忘れ去られている状態しょうか。【♪ KechiKechi Classics ♪】を開設したのが1998年だから、ちょうどその頃、ワタシはティントナーの新発売を楽しみにしながら熱心に聴いていたものです。やがて、ワタシは自分のなりの”Bruckner嗜好”に混迷を深めてしまいました。いえいえ、けっして作品を嫌いになったワケじゃないけれども。(このCDは”出戻り買い”なんです)

 やがて数年を経、ワタシはティントナーを”聴ける”ように復活いたしました。あちこち寄り道しながら、悩みながら。ようやく、出会った頃の”鮮度”が蘇ったような、その意味合いを理解できたような気がしましたね。茫洋として巨大なる演奏ではなく、優しいというか、少々情けないくらい颯爽とは縁が薄い、素朴な個性。中庸のテンポで強靱(強面?)にアンサンブルを引き締めない。叫ばない、煽らない、焦らない、ノンビリとして慌てない。つまりは全然カッコよろしくない。

 走らない、急(せ)いたアッチェランドが存在しない。響きが清涼で濁らない。結果、他では類を見ない、味わい系親しげなるサウンドを実現して”癒し系”(盟友の言葉)Brucknerを実現しております。金管の鳴りっぷりに不足はない(はずだ)が、決然とした切れ味はないから「お話にならん!」と否定される方もいらっしゃるでしょう。ぎらぎら、艶々した録音ではないが、自然で聴き疲れしない録音も極めて良好・・・但し、音量レベルが低いからボリュームを上げたほうがよろしいかと。

 この作品、Brucknerの作品中、屈指の巨魁なるスケールを誇っているけれど、ここではずいぶんとゆるゆる、ぼそぼそと呟くように〜時に決然と立ち上がる第1楽章。あまりに抑制され、さらりと繊細クールなる弦の詠嘆が聴かれる第2楽章「アダージョ」〜やがて金管が相和して合流するが、けっしてヒステリックに絶叫しない。木管だって清楚そのものじゃないか。テンポは粘らない。粛々諄々と流れる音楽は、いつしか切ない。この楽章、白眉ですね。

 Brucknerのキモは「スケルツォ」に決まっているんです。交響曲全曲に短時間、一気に馴染もうと思ったら「スケルツォ」だけ比較したらよろしい、但し元気な時にね。決然とした第3楽章はいくらでも煽って走って、切迫させることが可能そうだけれど、ここも緩いですなぁ。とくに金管〜よく鳴っているし、技術的に問題なさそうな感じ(いえいえ、充分魅力的な音色です!)だから、確信犯ですか。響きがクリアで濁らない、威圧感がないのも特筆すべきでしょう。同じような繰り返しに、聴き手はやがてあきらめの境地に達する・・・

 あちこち、田舎の田園風景をゆっくり進む列車のように、長大なる交響曲は最終楽章を迎えました。懐かしい第1/3楽章の旋律が回帰します。幻想的で美しいが、器用ではない、颯爽と流麗とは縁遠い。やがて堂々と金管が鳴り渡って、フィナーレを予感させるが、それさえ含蓄深く響いて表層を磨かない。音楽は強靱に構築しない。

 リズムは切迫せず、遠慮がちで不器用、そして清明なるBrucknerは如何ですか。マニアックなBrucknerでしょうか?今から8年ほど前のワタシは、たしかにこの演奏に感動したはず。この名曲のヴェリ・ベストではあり得ないかも知れないが、各々の演奏個性をたしかに感じ取るのは、聴き手の責任であります。壮大華麗なる表現ではないが、万感胸に迫って、たしかに壮大華麗なる最終楽章であることを聴き取ることは可能でしょう。

 安易なる”摘み聴き”を許さないのは、このCDばかりではないだろうが、全曲、まるごと、しっかり聴いてあげないと、この演奏は胸襟を開いて下さらない。全曲聴き終えて、爽やかな気分に充たされました。

(2006年9月1日)
●以前の恥ずかしいコメントも残しております。


【♪ KechiKechi Classics ♪】

●愉しく、とことん味わって音楽を●
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written by wabisuke hayashi