Shostakovich 交響曲第 5番ニ短調
(キリル・コンドラシン/モスクワ・フィル)
Shostakovich
交響曲第 5番ニ短調 作品47
キリル・コンドラシン/モスクワ・フィルハーモニー
VENEZIA CDVE 04241-5 1968年
まさにこども時代から聴いていた演奏(LP一枚物)であって、当時は文句なく感動しておりました。やがて、社会人になってLP全集を購入、やがて処分・・・この第5番のみMDにて残したが、ワタシはこの作品をすっかり苦手系に・・・罰当たりですな。
ややハイ上がりで肌理も粗い、奥行きも少々薄いが、上々の音質でしょう。中庸のテンポ、緊張感、力感にも集中力にも不足しないストレート系であり、露西亜風粘着質ではない。もちろん煽らない。響きはやや硬質っぽいが、モダーンで洗練されたセンスだと思います。もちろん時代的(+露西亜の正統派演奏家として)クールでさばさばとした、そんな作品への対峙ではない。聴き進むに連れ、かつての記憶がつぎつぎと蘇って、こんなわかりやすい音楽に、ココロときめかせた若き日の感性を微笑ましく思い出したものです。いつもの”違和感””反発心”に非ず。(「音楽日誌」2006年7月)
Kirill Kondrashin(1914ー1981旧ソヴィエット)は1978年阿蘭陀にて亡命、次期バイエルン放送交響楽団への音楽監督就任も決まって、これからと云った矢先急逝したのも残念な定命。20年ぶりのコメントを考えていたら、露西亜による烏克蘭侵攻でしょ?この間、久々に彼の全集を聴いて(以前より)音質印象改善著しい感慨に、ずっと避けていた(”違和感””反発心”)一番人気第5番ニ短調交響曲を振り返ろうとしていて不意打ちでした。Shostakovichにはシニカルな二重性があったらしいし、亡命したコンドラシンだからご勘弁していただきましょう。上記拝聴からも既に16年経過。
転居しても貧者のオーディオ・セットは変わらず、但し、壁が頑丈になって解像度は上がって毎日驚きの連続です。Kirill Kondrashin全集はLP時代からの馴染み、但し、若い頃は作品そのものに歯が立たず、21世紀に入ると音質的にやや敬遠するようになっておりました。久々の拝聴はそりゃアンドリス・ネルソンスみたいには行かない、ちょっぴりメタリックに粒の粗い音質だけど、1960年代旧ソヴィエットの録音としては出色の日常聴きに充分な鮮度、むしろ作品風情に似合っているかも。当時コンドラシン54歳、緊張感に充ちて尖った金管も鋭い、骨太な佳き演奏ですよ。モスクワ・フィル絶好調。
第1楽章「Moderato - Allegro non troppo」弦楽器によるシンプルかつ劇的な主題は、Mozart アダージョとフーガ ハ短調K.546クリソツ。静かな第2主題はBizetの「ハバネラ」との指摘もあるけれど、ド・シロウトにはようわかりません。高まる緊張感にテンポは中庸から速めの印象、野太くも粗野なホルンは外では聴けぬもの。叩きつけるようなピアノ、無慈悲かつ強烈な金管の炸裂から展開部、一気にテンポを上げてその緊張感テンションは最高潮に!この金管怒涛のの迫力、雑味が入ったような鋭さはいかにも露西亜、やがて第1主題が優しく静かに回帰して、怪しくデリケートに収束します。ノーテンキにアツい演奏に非ず、どこか常に怜悧。(13:38)
第2楽章「Allegretto」は典型的なんだけど、とても重苦しいスケルツォ。これもBizet「カルメン」の旋律影響があるとのこと、さっぱりわかりません。中間部のレントラーがMahler風であるというのは納得。凄い名曲でっせ、冒頭のゴリゴリとした低弦、重いリズムを刻んで金管も木管もCool!ファゴットの超絶ソロも妙に苦しみを感じさせる無慈悲なユーモア。優しいヴィオリン・ソロ、それを受けるフルートも戦車が蹂躙するような金管の大音量に否定され、リズムのキレ味、ノリノリの風情もどこか常に怜悧。(5:18)
第3楽章「Largo」はフクザツな変奏曲なんだとか(弦は8声に分割される)。哀しみが一貫するわりやすい、金管のない緩徐楽章。朗々と啼くフルートも雄弁、やがて硬質な弦の慟哭にいや増す悲劇の色。デリケートな弦の抑制はオーケストラの技量を物語って、金管がなければ露西亜風泥臭い風情は感じられぬ洗練であります。Mahlerの影響を受けているという指摘には納得。華麗なる加齢に緩徐楽章が好みになると云う大法則はここにも当てはまりました。(12:10)
第4楽章「Allegro non troppo」はこどもの頃テレビに拝見した部長刑事のテーマ音楽。凄い選曲でしたね。木管の導入とティンパニのラッシュが”いかにも!”風、勇壮な行進曲風主題も好きになれないところ。コンドラシンは前半 猛スピードにテンポを上げて、高らかにトランペット先頭にアクの強い金管が追い打ちをかけて、この切迫感は尋常じゃない。ここにも「カルメン」引用有とのことだけど、さっぱり理解不能。”苦難との戦いから勝利へ”みたいな図式はカンベンしてよ、状態。主題からの熟達した展開〜フィナーレの爽快な決まり方も妙に白々しい。第3楽章迄の重厚さ重苦しから、コンドラシンはむしろ軽快に流している?ような印象も受けました。(10:50) (2022年3月5日)
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Shostakovich
交響曲第 5番ニ短調 作品47
キリル・コンドラシン/モスクワ・フィルハーモニー
LP→DAT→MDへ(1968年録音)
「悲愴」とか「幻想」、Beeやんの交響曲辺りは苦手なんです。Brahms も、そしてこのShostakovich第 5番もすっかり敬遠気味。いかにも「それ」らしいというか、ウケ狙い(これは作曲家の責任じゃない?)というか。でも、音楽はもっと虚心になって楽しまないと。ナマで聴けば、たいてい感動するのも事実なんです。
この作品・録音はワタシが中学生時代から馴染んでいたもの。新世界レーベルのLPで2,000円でした。札幌の玉光堂4丁目店で一日つぶして、悩み抜いて買ったはず。大金ですから。中年となった今では、もったいなくて買えません。こどもの頃は、先入観もなくて、集中力も時間もあるから、いきなりその作品・演奏の本質を掴んでしまうこともあります。
一方で「な〜んもわかっちゃない」こともあって、ガキには「粋」とか「諦念」「官能」は理解できない。とにかく紅顔(厚顔)の美(ぶ)少年だったワタシは、この演奏に震えるほど感動したんです。今残っているDAT録音は、社会人になってからLP全集で買い直したもので、その時期には人生を斜に構えていたせいか、真剣に聴いていません。
一般にあまり音の状態がよろしくないロシア系の録音ですが、コンドラシンのはおおよそ響きに芯があって聴きやすいものが多い。冒頭からテンション高く、やや早めのテンポで骨太です。オーケストラは(よい意味で)響きの肌理が粗いというか、生々しくて、切迫感があってザラリとして独特の魅力。
コンドラシンは、センスとしてはロシア風コテコテではなくて、もっとストレートなものだと思います。迫力充分で、推進力もあるが、ロジェストヴェンスキーなんかの体質とは違う。オーケストラがいかにも金属っぽい鋭い金管、硬質な木管や弦なので、「いかにも」っぽいサウンドに仕上がっているが、上品さを失わないと思います。第1楽章のモウレツに疾走するアッチェランドを聴いていても。
「苦難に打ち勝つ現代の”運命”」か「強制された”歓び”」か、なんていう論争には興味がなくて、もっと純音学的に、よくできた交響曲として、この演奏の完成度は高い。ノーテンキさは微塵もなくて、メリハリ強烈〜強面で体力ありそうな脂ぎった演奏者が眼前に浮かぶような〜エネルギー爆発。但し、常識的に「苦悩〜戦い〜勝利」みたいな単純な図式には聞こえません。
もっと複雑な不安があちこちに充満しているようでもあり、それを振り払うかのような激しい縦割りのリズム・・・・
これ第2楽章です。シニカルであり、強烈。続くラルゴにも胸が疼くような、もって行き所のない怒りみたいなものが渦巻いています。オーケストラの緊張感は持続していて、「甘さ」のないオーケストラの響きがこの曲には似合っている。中間部のサビの「泣き」は一流でっせ。
終楽章は突っ走っている感じではなくて、推進力も迫力は相当ながら「勝利」みたいな雰囲気ではない。どんどんスピードは上がっているが、明快で、冷静だと思います。音質やセンスも含めて、1968年とは思えない現代的なものを感じさせて(ま、あまり沢山聴いていないが)今まで聴いたウチではベストでしょう。
「MDの余白にはなにを?」ということで、いずれもフツウのFM放送のエア・チェックだけれど
祝典序曲 作品96 アシュケナージ/ロイヤル・フィル
ジャズ組曲 第2番 シャイー/コンセルトヘボウ管弦楽団
を収録。これ、演奏曲目とも上出来でした。NAXOSのジー/ニュージーランド響の演奏では、祝う気分になれない「祝典序曲」もなかなかのノリ。ジャズ組曲は、ジャズというよりアメリカの行進曲やサーカスのジンタ風で、いずれも楽しさ溢れる、あんまりノーミソを使わない曲。こんな曲も深読みすれば、なにか正反対の意味でもあるのでしょうか。それとも単純な機会音楽?オーケストラの上手さは折り紙付き。(2002年1月6日)
【♪ KechiKechi Classics ♪】 ●愉しく、とことん味わって音楽を●
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