小澤/ベルリン・フィル・ライヴ1989年


Berg

管弦楽のための3つの小品 作品6

Brahms

ピアノ協奏曲第1番ニ短調 作品15

小澤征爾/ベルリン・フィルハーモニー/シフ(p)(1989年6月13日フィルハーモニー・ホール・ライヴ)カセットにてエア・チェック→MDへ

 べつに小澤に限らないが、ここ最近の売れ筋の人の新譜はほとんど聴いておりません。CDの値段が高いし、手持ちで未聴ののものも在庫は溜まる一方。まだ、FMを盛んに聴いていた頃は「基礎知識として」、または「世間の常識として」有名どころも聴いておりました。ある日、カセットをしまってあるダンボールをひっくり返したら、これが出てきました。

 エア・チェック時の記憶(10年ほど前)では、たいへん美しい演奏であった記憶有。ワタシは小澤のファンではないが、音楽を憎んでいるわけではないんです。ましてや、Bergはたいへんなお気に入り。それに、これはワタシの厳選・選りすぐり(同じ意味か)400本残カセットの中でも、極めて成功した(そうでもないかな?)エア・チェック音源なんです。

 まずBergが、まったく従来のイメージをひっくり返してしまう演奏。なんども聴いている曲だけれど、一聴、この曲とは気付かない。バカバカしいスケール感とか、シニカルな狂気とか、爆発的な暴力とは縁がなくて、まったく緻密で凝縮された静かな音楽。この演奏からは「歌」は感じられない。いえいえ、悪口言ってるんじゃないんですよ。

 「間」とか「呼吸」、「この辺りはひとかたまりで、こういった意味合いで」〜みたいなものが、まったく存在しない。(おそらく)楽譜そのまま、精密に淡々と流れていって、「タメ」とか「アク」がないんです。ある意味、いつもの小澤の世界そのまま、他の曲なら耐えきれないでしょ、きっと。

 でも、難解で複雑なこの曲、細部までひとつの音もゆるがせにしないで表現して、結果、難曲を難曲としてちゃんと難しく、しかも耳あたり良く聴かせてくれて、「明快な混沌状態」表現が極上に新鮮。これこそ、この曲の真理。威圧感も、未整理なアンサンブルも存在しない。これは、モウレツに上手いベルリン・フィルの力量でもある。厚みと重みと伝統が、極限に凝縮されてしまって、じつはダシのベースになっているんです。この芸術表現は、西欧の人々には貴重なのかも知れません。

 Brahms は別な意味でもっともの凄い。この曲、やたらと重暗く、威圧的なイメージがあって、たまにはそれもよろしいが(どちらかというと)苦手方面の作品です。カーゾン(p)/セル/ロンドン交響楽団の素晴らしい録音が残っていて、とくにセルの有無を言わさぬオーケストラの充実ぶりに声も出ないほど。久々、それに匹敵する演奏に出会った気分ですね。

 冒頭のアンサンブルはセルに匹敵するでしょう。いえいえ、ベルリン・フィルは生粋のBrahms 向けオーケストラですよ。緻密さの基礎にある自信というか、余裕が違います。シフのピアノが暖かくて、諄々と説得力があって、声高に叫ぶことなど考えられない奥ゆかしさ。これは、むしろBrahms のピアノ小品集に見られる、孤独・諦観・寛容がにじみ出ていて威圧感が存在しない。

 小澤のオーケストラがねぇ、聴いている途中から存在を失うんです。これも悪口じゃない。シフの静かなソロと完全に一体化して、突出することがないんです。強圧とか、茫洋としたスケールは感じなさせい、室内学的集中力を持った美しい演奏か。いわゆるソロや、優秀なオーケストラの自己主張のぶつかり合いとは一線を画す新時代の表現。

 小澤の表現は、優秀かつ伝統(これはクセもの)が重積したオーケストラでこそ真価が発揮できるのかも知れません。ベルリン・フィルのような天下の最優秀オーケストラを「自分の音」にしてしまう技量には驚くばかりだけれど、やはりベルリン・フィルはベルリン・フィルでっせ。ちゃんと、それらしい(極上の)音が鳴る。逆に言うと、上手いだけの「斎藤先生記念管弦楽団」は?という結論は自ずと見えてくるじゃないですか。(2002年7月12日)


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written by wabisuke hayashi