額田 勲 「終末期医療はいま」

ちくま新書 1995年発行

 久々にココロにずっしりと重い本に出会いましたね。既に10年前の出版だが、状況は少しでも変わっているでしょうか。山崎章郎「病院で死ぬということ」「続 病院で死ぬということ」「ここが僕たちのホスピス」「僕のホスピス1200日〜自分らしく生きるということ」(以上文春文庫)「僕が医者として出来ること」(講談社+α文庫)という4冊の「終末期医療」を扱った著作はベストセラーになったし、映画にもなりました。(主演 岸辺一徳)ワタシも尊厳死について、深く考えるキッカケを作ってくださった書籍として、多くの方々にぜひ読んでいただきたい、そう考えます。

 神戸のみどり病院院長として現役現場の医者である著者は、前半は死の現場の描写に枚数を割きます。ひとそれぞれ個性的な「死の現場」があり、また日本に於ける「死」は個人のものではなく、家族共有の現象であることがよくわかります。脳死であるとか、尊厳死の問題論議が、なかなか進まないのも抜き差しならぬ文化が根底にあるからでしょう。そのことだけでも、充分に価値のあるドキュメントだと思います。

 ところが後半に至ると、社会に流布している希望、印象とは裏腹の厳しい現実について問題提起がされるのです。アメリカに於けるホスピスの普及には4000万人に及ぶ無保険者と、ホームレス問題を抜きにして一律に日本と比べられないこと。日本ではホスピスで死を迎える人はわずか1%であり、80%は病院で死を迎えること。自宅で死を迎えるにはあまりに家族への負担が大きすぎること(または家族関係が既に崩壊していること)、住宅事情が許されないこと。

 だからその主たる「死の現場」である、病院をなんとかしなければいけないが、更にその80%が経営的に問題を抱え、合理化が求められること。死と向き合う患者の話しをじっくり聞いてあげても、なんらの医療報酬にはつながらない現実もあります。

 不治の病との「告知問題」は、じょじょに当たり前になっているようだが、一方で一筋縄ではいかない現実も(実例を挙げて)語られました。「尊厳死」問題にしても、本人がいくらそれを望んでいても、いよいよ最期の苦しい状況を目の当たりにした家族は(いえ、これは亡くなる前には皆さんこうなんですよ、と医療関係者が説得しようとも)人工呼吸器を付けたり、気管切開を強要したりするものだそうです。そして亡くなったあと(気管切開をすると話せなくなるので)「最期の挨拶も出来なかった」と恨み言を言われる場合もあることのこと。

 脳死問題、そして臓器移植を待つしかない患者が「人の脳死を期待してまで生きたくはない」と、移植を拒否する問題も語られました。脳死問題のシンポジウムでは、患者家族側から(圧倒的な)医師不信の声が大きく、献身的な医者の存在はかすみがちであるとも。

 直接には語られないが、山崎先生の「ホスピス」が流布したホンワカとしたイメージに対する期待・希望と、現実の対比を考えさせる一冊かと思います。医療現場は変わっておりますか?どちらせにせよ。  

(2005年4月20日)


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