宮城谷 昌光さん 「BEETHOVEN 交響曲第5番ハ短調」論評Gramophon Japan 2000年10月号より 宮城谷さん(小説家)が、Gramophon Japan 2000年10月号にて「BEETHOVEN 交響曲第5番ハ短調」の論評をしております。CDの論評その数27種類。書籍の紹介ではないが、これは、別な曲の続編を書いていただいて、本にしていただきたいくらいの立派で深い内容でした。思わずワタシのHPで紹介したくなるくらいの衝撃。 「これらはすべて買ったもので、押しつけられたものは一枚もない」「わたしは聴かないと決めた指揮者の盤は、死ぬまで聴かないので、この後にどういう機会があっても批評の対象にはならない」これ、ある意味正しい音楽愛好家の姿勢で、我らアマチュアの崩してはならない基本でしょう。普段プロの評論家が書いたものや、一般的な評価とはずいぶん違うのが驚きでもあり、勉強にもなります。 トスカニーニはあるが、フルトヴェングラーはない。ベームはあるが、カラヤンがない。チェリビダッケは出てくるが、バーンスタインは見あたらない。たまたま手元にないだけか、「聴かないと決めた」指揮者なのかはわかりませんが、選盤からして個性的。 1952年録音のトスカニーニ盤は「絶対であり、良否の対象外」というのは理解できます。ブーレーズ盤は「笑いを噛み殺したような、奇妙な演奏」、C.クライバー盤「拳をつきだして力の強さを誇るようなばかばかしさしかない」「この盤を薦める人は、悪い冗談を言っているとしか思えない」、ショルティ盤「この録音はないほうが良い」、ヴァント盤「中の上」、とまぁ容赦ないこと。 ワルター(コロンビア)盤「陰影の乏しい散文」、クリュイタンス盤「ベルリン・フィルはウィーン・フィルに比べてはるかに劣る。これでは一流半である」、セル盤「聴かせてやる、といった傲慢さがある」、ハイティンク盤「秀逸とはいえない」。結論だけ抜くといかにも乱暴なようだが、じつは言葉の選び方や、前後の脈絡があってけっして無謀ではない論理。いくつかワタシも聴いていますが、結論は別として納得する部分も多い。 評価の高いものも一癖あって、E.クライバー盤「安心感」「虚飾なく」「その気迫が、こころよい」、シューリヒト(パリ)盤「弦のあつかいのうまさにおもわずうなった」、モントゥー盤「達人の指揮による、と断言してもよい」、オーマンディ盤「ゆったりとした気分で聴くのは、ちょっとした幸福なのかもしれない」、ストコフスキー(LPO盤)「あれこれむずかしい理論抜きに、交響曲を楽しもうとするなら、これでよいのかもしれない」。 ムラヴィンスキー(1972年)盤「ロマンチシズムというものを感じさせてくれたのは、この盤だけである」、ホグウッド盤「たいくつであるということではない。こころよいのである」、アーノンクール盤「名品ではないかもしれないが、佳品である」、チェリビダッケ盤「後世に残すべき名盤」、ジンマン盤「いかにも旧来の演奏とはちがう」「この指揮者はよい」・・・・まだ全部紹介できません。 旧来からの論評にとらわれず、自分の価値観を正確に表現すること。心の底から学びたい姿勢です。ワタシはクリュイタンス盤の「ベルリン・フィルの重さ」には感服しました。オーマンディ盤は、ワタシ個人的にこの曲との出会い。誉めた論評は初めて目撃。クライバー盤をここまでボロカスに言っているのも、他ではないでしょう。 シェルヘン盤の評価は一致(但し、ワタシはあえてお薦めしたい気持ち)。ここに出てこないところでは、手元にあるクリップス盤、フェレンチーク盤、メニューイン盤、ケーゲル盤、クレツキ盤、ハノーヴァー・バンド盤、ザンデルリンク盤辺りを語り合ってみたいもの。宮城谷さんは、ワタシのように激安・怪しげ盤収集の趣味はないでしょうねぇ。(あたりまえか)
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