渡辺 和彦 「クラシック辛口ノート」

ひらかれたリスナーのために(日本ジャーナリスト・クラブ賞受賞)
洋泉社  1993年発行 1,800円(+税)

 最近、このHP「本で聴く音楽」の更新ペースが全然上がりません。ワタシの読書意欲が著しく落ちていることが要因で、かつての「なんでも知ってやろう」という意気込みが後退しております。集中力も、記憶力も落ちてきている。で、本棚を整理していると、こんな本が出てきました。再読するうちに、この本がワタシに与えた影響の大きさに驚くばかり。

 渡辺さんは「若手のニューウェイヴ評論家」といったイメージがありますが、ワタシより少々歳上。彼の持ち出す論点は、数十年前から「レコ芸」を舞台にしてきた、保守的、かつ権威主義的、かつ「イン・ザ・ムード」的なものとは大きく異なって「辛口」ではあります。執筆時期が、日本がまだ景気が良くて、バブル崩壊前。その方向性はいまでも充分説得力があります。

 序・「CDを捨てて街へ出よう」〜これは言うまでもなく寺山修司のパロディですよね。(知っている人も少なくなったかも)「ただいつも私の中には、『一流』『巨匠』といわれている指揮者やピアニストの周辺ばかり追い回して、他の芸術ジャンルともほとんど交流せず、しかも話題は常にレコード中心というこれまでの日本の音楽ジャーナリズムに対する苛立ちがあった」

 〜更に、本来音楽というのは自分で演奏したり、作曲したり、演奏者と同じ空気を共有することが第一義的なはずであり、レコードを聴いたり、それを論評する、というのは第二義的なものだったはずなのに、日本ではそれが中心になってしまった現状を嘆いています。

 たしかにワタシ自信を考えても、音楽への傾倒は子供の頃聴いたレコードを抜きにして考えられません。しかし、「フォーク・ブーム」世代であるワタシは、15歳から20歳代まで作曲(の真似ごと)をしていたし、自分ではまともに楽器も弾けない、楽譜も読めないので、地元のアマ・オケの熱意と意欲ある演奏会を一番貴重と考えて応援してきました。それでも、やはりCD抜きに音楽は語れないのも事実。

 一方で、ウィーンやパリが縁遠いものでなくなり、自分で楽器を演奏したり、マーラーのような大曲をナマで聴くことが可能になったり、その楽譜も簡単に手には入ったり、自らアマ・オケに参加して音楽を楽しみ人々が増えていることも事実。「レコード・マニアの時代は終わった」。以下は、ワタシの印象に残っているところです。

 「ふたりのヘルベルト」〜これ、わかりますか。カラヤンとケーゲルのことなんです。旧東ドイツの指揮者であったケーゲルは、1990年に自殺しています。渡辺さんは生前来日したケーゲルにインタビューしているんですね。内容は読んでのお楽しみ。特定の演奏家のCDは集めないワタシですが、ケーゲルのCDを見かけるたびに買っていたのは、この本の影響があったのでしょうか。(安かったせいもある)以前から好きではなかった、マズアをいっそう嫌いになったのも、この本のせいかもしれません。

 ベルリン響を率いて来日した(1991年)フロールへのインタビューも載っています。このときの演奏は、ほんとうにガタガタだったそうで、東西ドイツ統一直後の名門オケの苦境が伺えます。(それから10年〜回復したのでしょうか)

 山田一雄(数々の名曲〜現在では〜の日本初演の話しが泣かせる)、マゼール(マーラーは健全であるべき、との主張)、ベルティーニ(これもマーラーのお話し)へのインタビューも興味深い。著者が造詣の深いシスタコヴィッチは、当時「証言」の信憑性を巡って論議が喧しかったが、吉松隆さんとの対談は素人目(ワタシ)にもわかりやすいものでした。

 著者は弦楽器に思い入れがあるそうで、ガラミアン・ディレイ門下から次々と俊英が出現する様子を楽しんでいます。また、久々のドイツ正統派F.P.ツィマーマンへの高い評価、変貌していくチョン・キョンファへの不安、などが、好き嫌いを越えて具体的な論評をされました。(インタビュー含む)

 ラストに「辛口音楽時評」(1985〜1992)という、短いコラムがたくさん収録されていますが、まだ、景気が良かった頃なのに、早くも「芸術は金がかかりりすぎる」との圧力が出ていることに不安を覚えました。ましてやこの信じられないくらい続く大不況の現在、「音楽業界」はどうなっているのでしょうか。


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written by wabisuke hayashi