五味 康祐 「オーディオ遍歴」

オーディオには縁のないワタシですが、音楽と再生手段のありかたは深い。
新潮文庫 1982年発行 280円

 ここ5年間転勤で3回引っ越した結果、見えなくなったものがいくつかあります。本の類は重くってじゃまくさいので、ずいぶんと処分しました。でも、どうやらまちがって処分したものもあるみたいで、五味 康祐さんの「音楽巡礼」(新潮文庫)が見あたらない。しかたがないので、もう一冊残っていたこちらの本を久々に読み返しました。

 剣豪小説で有名だった五味さんは、もう過去の人であまり本も出ていないはず。ご健在だったときは、人相学なんかでテレビにも出演されていた記憶があります。完全にLP時代の人だし、グラビア頁には懐かしいオープン・リールのデッキも見えます。オーディオにはとんと縁がないワタシも「タンノイ・オートグラフ」の名前くらいは知っている。

 世代的にオーディオやレコードがうんと贅沢だったでしょうし、ステレオ録音が出現した辺り。(昭和26年、まだ作家として世に出る前、月給9000円の時、輸入LPは3000円!したとのこと)もうすべてをなげうって(まさに、女房を質に入れても、といった意気込みで)英国のオーディオ類を揃えていく、鬼気迫る迫力。そしてどんなに「よい音」が出ても満足できず、失望し、再びよりよい音を追求して止まない執念。

 で、各章のラストは必ず同じ結論で締めくくられます。レコードによって再生される音楽は、驚くほどオーディオ機器によって印象が変わる。5万枚のクラウスのレコードが売られれば、5万通りの音で鳴っているに違いない。しかし、大多数の人々の感動の質は変わらない。所詮、音質で価値が変わるような音楽は、その程度の音楽でしかない、と。「先ず、音楽をきくことだ。一枚でも多く、いいレコードをきくことだ。装置をいじりだすのは、充分、レコードを聴き込んでからでもけっしておそくはない。」

 と、云いつつ、当時話題だったショルティの「ジークフリート」を例にとって、こんなことも展開していますね。優秀ならざる装置で聴くと、次々と登場人物が現れ、歌い、去っていく。「彼らの足は舞台についていない」「スピーカーが歌う」−筆者のタンノイでは「ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口がうたうのだ」と。
 自分でレコードのカッティングなども試みられて、その音づくりの奥深さに驚いていますが、CDの「人間の聴こえない音域をバッサリ切り取ってしまった」音にどんな感想を持つことでしょう。

 「再生技術は進歩しているが、演奏芸術そのものはなんの進歩もしていない」といって、フルトヴェングラーの「ワルキューレ」と、(当時新録音だった)ラインスドルフ盤との格差を嘆き、アイヴスを代表にとってアメリカの現代音楽に対する造詣の深さを見せたりと、一筋縄ではいかない多彩さ。

 ラスト辺りに「オーディオ愛好家の五条件」が示されていて、これが「オーディオ音痴」のワタシにも蘊蓄が深い。
(1) メーカー・ブランドを信用しないこと。→これは普段のワタシの音楽に対する姿勢の基本。
(2) ヒゲのこわさをしること。→これは現在では説明が必要でしょう。LPは大きかったので、プレーヤーにのせるときコツが必要だったんですね。で、まんなかの穴にうまく入らないと、その周辺に「ヒゲ」のような跡がつく・・・・・ようはするに、音質に関係ないとはいえLPを大切にしない人に音楽を聴く資格などない、と云う意。
(3) ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。→これは意味は分かるでしょ?CDが登場した当時、「すべてデジタル信号だから、どんな装置でも同じ音に聴こえる」といったバカ(失礼)がいたなぁ。
(4) 真空管を愛すること→筆者の晩年はもう真空管は消えゆく運命にあったはず。ハイ、ワタシは真空管のアンプを使っております。
(5) 金のない口惜しさを知っていること→そうなんですよ。いまではワタシはかなり自由にCDを買えます。もちろん本も。でも、「嗚呼その音楽を聴きたい。お金があれば聴けるのに」といった渇望感は忘れちゃいけない。


 「音楽巡礼」の文庫を探しているのですが、なかなかないなぁ。最近、古本屋さんのチェーン店が増えているけど、ほんとうに欲しい本はあまりみつかりません。


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written by wabisuke hayashi