Stravinsky バレエ音楽「春の祭典」
(イーゴリ・マルケヴィッチ/フィルハーモニア管弦楽団)


EMI 7243 5 69674 2 7 Stravinsky

バレエ音楽「春の祭典」(1959年録音)
バレエ音楽「ペトルーシュカ」(短縮版/1954年録音)
嬉遊曲(交響的組曲「妖精の口づけ」/1954年録音)*
組曲「プルチネルラ」*(1954年録音)

Prokofiev

交響的組曲「3つのオレンジへの恋」 作品33bis*(1955年録音)
スキタイ組曲(「アラとロリー」)作品20*(1955年録音)
組曲「はがねの踊り」 作品41bis(1954年録音)

イーゴリ・マルケヴィッチ/フィルハーモニア管弦楽団/フランス国立放送管弦楽団*

EMI 7243 5 69674 2 7 1954〜1959年録音  2枚組1,000円で購入

 2009年再聴。昔から評価の高い録音であり、曰く”原始的で粗々しい、録音がいまいち”、そんな感じのネット検索結果が出現します。

 ・・・が、そうかな?安物オーディオ+エエ加減なる耳だから信頼性は薄いけれど、”1959年にしては”という保留条件なしに、立派な、迫力と臨場感ある音質だと思います。少なくとも演奏の質を貶めるような、マイナス要因にはなっていないはず。フィルハーモニア管弦楽団の優秀さ、鋭敏なる反応とリズムのキレ、燃えるようにアツく激しいノリ、いずれをとっても最近の著名演奏に負けない価値を感じました。

 ブーレーズ以降、例えばシャルル・デュトワ辺り(ブーレーズとデュトワは全然別物の個性だけれど)の洗練された表現が、世間の基準になっているのでしょうか。マルケヴィッチを知的洗練方向ではないにせよ、原始的で粗野、泥臭い演奏とはほど遠いと思うんです。異様なデフォルメ表現とか、金管楽器のエグい咆哮ではない、リズムそのものの激しいキレを狙っていて、その指示にフィルハーモニア管弦楽は鋭敏に反応しているのだ、と。アンサンブルの見事さは”洗練された技巧”なのでしょう。同時期の録音に時々見られる、”全然弾けていない”演奏とは一線を画します。

 一般に神妙で妖しい第1部を経、第2部には(おそらく聴き手が)疲れてしまうような演奏が時に散見されるけれど、これは後半ほど熱気テンションはいや増すばかり。もうヤケクソのような叩き付けるリズム爆発して、これが、彼(か)のエレガンスなザ・フィルハーモニアなのか?と訝しく思うばかり。これはマルケヴィッチの成果なのでしょう。ワタシはブーレーズの知的緻密クールに計算され尽くした演奏が大好きだけれど、これも一方の標準だと思います。(ちなみに作曲者の自演はかなりノンビリ牧歌的な味わい有)

 残りはモノラル録音で、意外と知られていない音源ばかりとなります。

 「ペトルーシュカ」は残念ながら短縮版(わずか16分)であって、しかも(これ以降)全部モノラル録音。でも、いずれ音質はかなり鮮明です(ワタシの音質評価はたいてい甘いが)。これも「春の祭典」同様躍動ノリノリ、かなりヴィヴィッドな演奏となります。ま、マルケヴィッチはリズムの人だから、当然か。全曲録音して欲しかったですね。いくつかセッション重ねて全曲にする予定が、そのうちステレオフォニックの実用化で死蔵された音源なのか。こちらのほうが作品的に?色彩豊かであります。

 「妖精の口づけ」はフランス国立放送管弦楽団に変わっていても、鋭敏なリズムのメリハリは変わりません。作品的にはノンビリ、ユーモラスでして、マルケヴィッチが時にオーケストラを爆発させると、その効果はいっそう引き立ちました。後半のチェロ・ソロが優雅であります。作品そのものが優雅だけれど。楽しいですね。ここまででCD一枚分。

 「プルチネルラ」は1947年版組曲であって、これも全曲録音が欲しかったな・・・とここまで書いて、以下Prokofievはまだまだお勉強中なので、別な機会に。申し訳ない。

(2009年1月30日)

 この「春の祭典」は出始めの頃から評価が高くて、しかもLP時代は廉価盤でお馴染みだったもの。(セラフィム1000シリーズ。マティス「舞踏」のジャケットが印象的だった)CD時代になってからも何度となくご出馬していて、TESTAMENTではご丁寧にもモノ/ステレオ(この録音)両方収録していただいて素晴らしい。日本でも盛んに演奏・録音して、この曲の普及にご尽力があったのは有名な話しでしょう。(CD、DVDにもなっている)

 「時代が進むほど良いものが出てくる」とは限らないのが、世の中面白いところ。かつては「難曲」と評されたものが、現在ではアマ・オーケストラのフツウのレパートリーに。「現代音楽の古典」は、ただの「古典的名曲」になりました。マルケヴィッチの演奏は鮮度充分で、21世紀にも鳴り響きましたね。


 ・・・と、ここまで(ありきたりなこと)書いて約一年間。数回繰り返したが、雑念やら思い出やら〜ああ、中学生の時、ブーレーズ/クリーヴランド管のLP(紛れもなく2000円)の新録音(当時)を宝物のように聴いたなぁ、あの痺れるような感動はもう自分にはやってこない。ローティーンの若い感性のみに許された奇跡のような一瞬だったんだなぁ・・・

 貧しさの感覚がずっと抜けなくて「CDはできるだけ、最低でも70分以上収録してもらわないと〜」なんて言ってきたけど、このマルケヴィッチ盤を聴いていると、一枚目は「春の祭典」でメ一杯だね、精神的に。「ペトルーシュカ」も「妖精の口づけ」も続けて聴けないよ。最近、なんか疲れちゃって、さ。

 なんだ、この集中力の著しいダウンは。こどもって、飽きるほど気に入った音楽を何度もせがむでしょ?その執拗さ、集中力、記憶力の良さ。昨日まで「おもちゃの交響曲」とか「小夜曲」なんか聴いていたガキが、ある日突然、何を思ったかこんな暴力的で激しいリズムに目覚める不思議。音楽といえば演歌だった両親は驚いたでしょうねぇ。そりゃ。

 人生折り返し地点を過ぎた現在でも、この曲好きですよ。1913年5月初演で、この時期って次々新しい音楽が生まれていたドキドキするような一瞬でしたね。モントゥーが初演でしょ?ワタシ、モノラル時代のやや技術的にも怪しい演奏が好きなんです。初演者やアンセルメ、とか。かつて音楽に時代が追いつかずに物議を醸したが、いまや時代の喧噪は音楽を遙かに凌駕しました。

 技術は正確なほうがよろしいに決まっている。ヘタだからココロがこもっている、みたいな安易な論議に与(くみ)するつもりもありません。でも、難曲がたしかに難曲であったころの怪しさ、アツさ。これは捨てがたい。ブーレーズは技術云々は当たり前(フランス国立放送管弦楽団との録音にはべつな意味と熱気があるが)として、知的問題提起でドキドキさせて下さいました。

 マルケヴィッチは、フィルハーモニア管という優秀なオーケストラ、しかも響きはスリムで洗練されているけど、リズムの切迫感、緊張感、危うさ、切れ味、暴力を両立させています。LP時代の記憶では(オーディオ装置の責任もあったのでしょう)もっと、どんよりとした「歴史的録音」だったはずなのに、CDでは驚くほど鮮明でクリア。

 後年、次々と登場する「上手い”春の祭典”」とは一線を画す、時代のアツさ、みたいなものは聴き取れるでしょう。1959年という録音時期を考慮すれば、これは先進的な技量の成果であり、一方で、まだ聴き手の「新しい先鋭音楽」としての意識が残留する、ギリギリのバランス証言だったのかも知れません。

 このCD中、他の録音に言及する(精神的)余裕もなくなりました。(2003年11月15日)


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written by wabisuke hayashi