Beethoven 交響曲第9番ニ短調「合唱」
(フリッツ・ライナー/シカゴ交響楽団)
Beethoven
序曲「コリオラン」作品62(1959年)
交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱」(1961年)
フリッツ・ライナー/シカゴ交響楽団/合唱団/カーティン(s)/コプレフ(con)/マッカラム(t)/グラム(b)
RCA BVCC-8931 2枚組のうちの一枚 中古2枚組950円
ワタシは正しい日本人なので、正しき日本の風習として「年末は第九」なのです。Beeやんに対する畏敬の念は失わないつもりだけれど、苦手意識高じるばかりで(膨大なる在庫)CDを棚中より取り出す勇気が出ません。それでも年末ならば「第九」を聴かねばならぬ・・・と、フランツ・コンヴィチュニー盤(1960年前後)を取り出したが、体調不良だったせいか全然楽しめない・・・昔馴染みのこのライナー盤で少々少年時代の深い感動を回想したものです。
第3楽章「アダージョ」の長い、なが〜い変奏曲にシミジミこの一年を振り返りました。硬派のイメージある人だけれど、こんな清潔で良く歌う表現ができる人なんだな、ほんまはロマンティストだったかも、そんな感慨が押し寄せました。シカゴ交響楽団に甘美なる官能は求め得ないだろうが、剛直一本槍ではない、時として柔軟なる”揺れ”さえ存在して、万感胸に迫る説得力たっぷりであります。シカゴ響の管楽器は色合いを強く主張しないが、技量にまったく不安や不足が存在しない。
終楽章は、予想外に颯爽と涼やかに、速めのテンポで進行しております。例の「喜びの歌」最初の弦による提示、やがて管弦楽のすべてが参加する変奏曲では軽やかな明るささえ感じさせて、威圧感は存在しない。マーガレット・ヒリス率いる合唱団は恐るべき威力であります。全体として引き締まった筋肉質の響きであり、やかましい印象もない。やや素っ気ないですか?いえいえ、このくらいでアツきBeeやんはちょうどよろしい。
「アル・マルチア」からテンポを少々落として、それでも物々しい重さはありません。テナー(マッカラム)は、凛々しい声ですね。それに対抗する男声合唱も負けてはいない。そして、シカゴ交響楽団の圧倒的集中力アンサンブル(特に弦)が続いて(合唱前)中盤の山を形成しました。「喜びの歌」全員合唱の前に”タメ”もあります。これがカッコ良い。ティンパニを先頭とする打楽器群の強靱雄弁なるアクセントが快い。時に弦の”泣き”というか、ニュアンスの配慮も特筆すべきでしょう。
繰り返すが、この作品に於ける最高の”合唱”じゃないでしょうか。(フルトヴェングラー1942年盤のブルーノ・キッテル合唱団はいかにも音質的に苦しい)声楽ソロの統率も合唱と有機的に絡み合っていて、それこそ”喜び”が吹き出すような充実した歌。ラストは打楽器群の駄目押しのような連打に、華やかなトランペット(ハーセスか?)が絡み合って、これでこそ万感迫って正しき日本の年末が飾られる・・・
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なぜ、コメントが第3楽章から始まっているのか?それは、「コリオラン」が始まって少々違和感(ああ、やかましい!)あり、第1楽章に入り込めず、サウンドの硬さが気になり、第2楽章途中から(聴き手の心臓が)暖まってきて、第3楽章「アダージョ」でついに感銘極まった、という事実であります。で、ラストまで存分に堪能したあと、再び第1楽章「アレグロ」へ。
この集中力の激しさは尋常ではなく、それは優秀なる管弦楽に支えられて余裕、爽快であります。しかも、思い切ったテンポの”タメ”が出現して、単なる厳しさ一本調子の演奏に非ず。ああ、やはりティンパニが上手いですね。ワタシは純個人的な嗜好として第1楽章〜第3楽章が好きなんですよ。でもね、このライナー盤では終楽章も堪能できて・・・そして、第2楽章(スケルツォ楽章ですか)のハズむようなノリだって、もちろん楽しめました。(繰り返し有、が嬉しい)
フリッツ・ライナーは不機嫌で性格陰険な爺さんだったらしいが、この楽章の驚異的な推進力、それはあくまで明るく、爽快でありました。ワタシは「第九」をここまで楽しめたのは数年ぶりなんです。
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