Beethoven 交響曲第2番/第6番(ルドルフ・ケンペ/ミュンヘン・フィルハーモニー)Beethoven
交響曲第2番ニ長調 作品36 ルドルフ・ケンペ/ミュンヘン・フィルハーモニー 1973/72年録音 図書館で借りたCD(EMI TOCE -7103) Beeやんは尊敬しております。心より。とくに交響曲は素晴らしい、安い全集を見つけてしまうとたいてい買います。・・・・でも、苦手意識は抜けません。購入してそろそろ一ヶ月くらい経過するブロムシュテット盤も未開封状態。なんか、気が重いんです。昨年聴いたコンヴィチュニー盤全集に好印象を持てなくて、その先入観もある。 BBSにて「ケンペ/ミュンヘンフィルですが、南ドイツらしい明るくのびやかなオーケストラという感じ」「ミュンヒェン・フィルは余り好きではないオーケストラです。ケンペの軽快というか、妙に深刻ぶらない演奏も、はぁ、さもありなんと思いながら聞いていますが、どうもぐっとこない」等々ご意見百花繚乱状態。よろしいじゃありませんか。こりゃ、聴かぬ訳にはまいらぬ武士の意地。(ワタシの先祖は越後商人らしいが) ミュンヘン・フィルは弦にコクがない、なんて厳しいご意見もちょうだいするが、この第2番の軽やかさはなんでしょ。ま、EMI特有のコシなし録音の加減かも知れないが、木管が軽快で良く歌うこと、件の弦は無用に引きずらずに爽やかな歌い口。ハズむようなリズム感、ノリノリではあるが、早すぎず遅すぎず、納得できるテンポの適正。 よけいな飾りがないんですよ。素朴、といえば少々田舎臭いのか、なんて思われそうだけれど、とんでもございませぬ。颯爽としてシンプル〜これがほんまのカッコ良さでっせ。明るい伸びやかさもある。第2楽章「ラルゲット」の淡々としたなかに、いつの間にか充満する説得力。 「どうもぐっとこない」と思われる方は、きっとBeethoven に人生の苦悩の神髄を求めるからでしょうか。眉間にシワを寄せて「人類の苦しみはオレ一人で背負う」とばかり、音楽喫茶の片隅で渋面を作って聴いていた男どもは1960年代に絶滅しました。スケルツォは存分に躍動するが、リキみはないんです。 終楽章はややユルリ目で、牧歌的な歓びに溢れます。透明でほのかに震えるオーボエは誰ですか?やっぱり、ワタシBeethoven 中では「第2番」がとてもお気に入りです。
「田園」を初めて聴いたとき、震えるほど感動しました。(スタインバーグ/ピッツバーグ響のLP。中学生時代)ワタシもワル慣れしちゃって、この曲に感動することなど滅多になくなってしまったのは、感性が摩滅したからでしょう。ジンマン盤くらいかな?ここ最近、新鮮な気持ちで聴いたのは。 ケンペはもっと正攻法です。中庸のテンポ。よけいな重さを感じさせないのはいつも通り。フルートもホルンもゾクゾクするほど深い。ほとんどなんの作為もなくて、聴き慣れた旋律がこんなにも胸を打ってたまらない。曲の持つ真価をストレートに表現してくれて、ノビノビと暖かい日差しを感じます。 第2楽章「アンダンテ」には、ゆったりと揺れるようなリズムが感じられました。ここのテンポも絶妙。弱いわけではないが、静謐さが漂っていて、やすらぎます。やはり木管の歌が素晴らしい。「農民達の集会」「雷雨・嵐」は、オーケストラの厚みを期待するとはぐらかされるかも。低音をゴリゴリさせないのは、ケンペの抑制か、それとも録音故でしょうか? ここ、カラヤン/ベルリン・フィルの圧倒的にド派手な「音の饗宴」のイメージが流布されていますね。ホントはもっと田舎の「嵐」なんですよ。ちょっと衰えて「熱帯低気圧」になっちゃったのかな。「オーケストラの響きが薄い」と言ってしまえばそれまでだけれど、ワタシはこういう「自己抑制型」演奏は嫌いじゃありません。 終楽章こそ「感謝」の気分に充ちた幸せな時間です。木管金管のパートが明快なのは、「弦が弱いからだ」と指摘しないのが日本人の美学。結論的に、ワタシにはこういう「自然体演奏」がBeethoven には理想と言うことでしょう。他の例ではクリップスですね。シューリヒトの録音がもっと良好なら、それをカウントしてもよろしい。なるべく虚飾がなくて、自ずとにじみ出る音楽そのものの魅力。 全集が欲しくなりました。(2002年5月31日)
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